金丸氏略系図
『金秀寺記録』(金秀寺は天保五年(一八三四)焼失し、記録はそれ以後の作成)では、金丸氏始祖を資藤の次男、遠江守義藤(天文二十年=一五五一歿)とし、二代を肥前守義政(永禄十一年=一五六八卒)とある。義藤の死は、那須資世の死後一四〇~一五〇年ほどとなるから、記録の年代は合っていない。しかし『那須記』の記事などから推察して、義藤・義政なる人物が存在していたことは信じてよい。『那須記』の永正六年(一五〇九)の記事に、
「其後資親男子をもうけて、三歳の時山田の城に移りて、山田の次郎資久と号ス、金丸前(さき)肥前守、大関美作守預り養育す」
続いて同十一年の縄釣台の戦いの記事に、
「政資自ラ打出玉ヘハ、金丸伊予守同肥前守・稲沢播磨守………沢村五郎ヲ始トして二百余騎をめいて打出」
とあって、この金丸肥前守とは、年代より考えて、肥前守義政であろうと、『那須郡誌』は記している。
また永禄九年(一五六六)の烏山治部内山合戦、同十年の大崖山の戦い、天正年間の諸合戦に、那須氏の軍団に属し、しばしば出陣して奮戦した金丸下総守とは、義直(元和四年(一六一八)七月九日卒)であると考えられる。
伊予守義胤(慶長十八年(一六一三)卒)の代に至って亀山城を棄てて城の麓に住居を移した。その址を現に「宮跡(みやと)」と称するという。その理由は、天正十八年(一五九〇)六月、大関高増ら那須七騎が、豊臣秀吉に小田原の陣営に謁見した際、金丸氏を家臣として、その所領を自己の領地に入れて申告したため、秀吉から金丸氏の領地を黒羽領として朱印を給せられたという。かつて那須氏の一族として武名の高かった金丸氏も、このころは衰微してしまったとみえる。大関氏の家臣となり知行五百石である。因に慶長七年(一六〇二)の知行高は次のようである。
黒羽 大関左衛門督資増
高二万石
内 五百石 金丸杢
同 浄法寺図書
同 松本治郎左衛門
同 松本惣左衛門
(黒羽藩戊辰戦史資料所載)
慶長五年(一六〇〇)、徳川家康に対し、那須七騎より二心ない証拠として、人質を江戸城に送った。その中で黒羽藩に関しては、
大関左衛門佐資増
大関政増(于時九歳晴増長男)
家臣 金丸杢之助資貞 妻
浄法寺越前茂直 娘
松本治郎(部)左(右)衛門 妻
津田光明院(寺)源治(海) 妻
(『大関家系図』『継志集』)
なお大関氏系図には
「右衛佐高増(安磧)の女子、家臣金丸伊予守藤原資満妻、慶長十七壬子年二月十八日病死、法名聯室元芳、号妙蓮院」
とあるから、伊予守義胤は伊予守資満が正しく、杢之助資貞と資満は同人であろうと、『那須郡誌』は記している。
寛文八年(一六六八)、黒羽藩の検地事件によって、御暇となった面々の中に、五百石金丸杢之助がある。金丸義春であり、また同面々中、百五十石金丸弥左衛門とあるのは、弥平太義秀であろう。義秀は大関土佐守高増(法光院)の十一女鶴君を妻としていた。義秀の代に金丸氏が断絶したのは、後嗣がなかったためだろうという。貞享四年(一六八七)三月十八日卒した。(『那須郡誌』『黒羽藩戊辰戦史資料』)
那須氏の一族である名門金丸氏は、始祖資国以来代々宗家那須氏に仕え、戦国の世には輝く武名を挙げたのであったが、江戸時代にいたり、貞享年間(一六八四~八八)遂に断絶の悲運に終ってしまった。まさに栄枯は移る世のならいではある。