館の跡を堀之内と称するが、城壕も土塁も埋められ崩されて、今は耕地となって昔を偲ぶよすがは全くない。
『那須記』の「資藤京東寺合戦討死之事」のくだりには、次のように記されてある。
「……資藤、河田三郎隆衡 河田六郎資成六代成隆子也 ニ呼て宣ひけるハ、某此度老母よりかゝるいさめを蒙て候、其上尊氏頼れ申事身の面目なり、大勢の中ゑ懸入而討死せんと思ふなり、ワとのハ某か動き見物して早速下野に下り、此有様を母公に可申上、是を形見に奉れとて、はたの守にびんのかミを渡しける」
と、河田氏は那須資藤に従って、東寺合戦に出陣している。また永正十七年(一五二〇)八月の縄釣台合戦のくだりには、
「政資自ラ打出玉ヘハ、金丸伊予守・同肥前…………〈中略〉大関美作守河田六郎兵衛・沢村五郎を始トして、二百余騎をめいて打出、火花をちらし戦ける」
と、河田六郎兵衛の名があり、その後天正年間の合戦の記事にも、河田氏が那須氏に従って出陣したことが見えているから、この時代までは、河田氏の子孫が栄えていたことがわかる。その後河田氏の没落や、河〈川〉田館の廃滅の年代は不明である。
河田氏続柄