三 滝田氏

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 文治三年(一一八七)、那須資隆の六男実隆が滝田(烏山町滝田)に分知され、館を築いて居住し、滝田六郎と称した。滝田氏の祖である。子孫滝田氏を称し、那須氏の羽翼となって戦乱の世を逞しく生きた。実隆より五代滝田六郎資宗は、那須資藤に従い、東寺の合戦に討死した。応永二十四年(一四一七)八月の沢村城攻防戦には、沢村五郎資重の麾下にあって奮戦した武将の中に、後裔滝田平左衛門隆貞の名が見えている。その後にも、滝田氏は下ノ庄の有力武将として、永正十七年(一五二〇)の縄釣台の合戦、永禄九年(一五六六)の烏山治武内山合戦、翌十年の大崖山合戦、同十年の広瀬縄釣の戦い等に出陣し善戦している。天正十三年(一五八五)薄葉原合戦には、駿河守季隆奮戦し軍忠あったので、那須資晴から鞍・馬を賜わった。
 季隆の長男甚八季勝は、天正の末年に修理大夫資晴と間隙を生じ、弟新右衛門と共に烏山を退去し、千本(茂木町千本)に仮住いをしていたところ、大関安碩高増の招きによって、黒羽に来て永十貫文(百石の地)の地を給せられた。子孫代々大関氏に仕え重臣であった。現在その後裔滝田馨氏は、那須町沼野井に居住している。(『諸臣系略』)
 また同族の滝田氏で、六郎実隆(始祖)二十二代資信は、那須資晴没落の際、佐良土に退き、その後資晴の嫡子資景(福原)の家中となった。資信の弟資勝は興野村に移り、帰農して滝田源左衛門と称した。(『滝田氏系図』)