持隆は興野備中守と称した。
(平沼伊兵衛氏所蔵文書)○飯能市
平沼伊兵衛氏所蔵
那須資持充行状
那須之内興野・大沢両村、子孫迄永代可令知行候、仍而如件、
文明四(一四七二)壬辰四月廿八日 那須越後守(資持)(黒印)
興野備中殿参
平沼伊兵衛氏所蔵
那須資持充行状
那須之内興野・大沢両村、子孫迄永代可令知行候、仍而如件、
文明四(一四七二)壬辰四月廿八日 那須越後守(資持)(黒印)
興野備中殿参
永正十七年(一五二〇)八月、白河城主結城義永は、我が子資永(福原城にて自刃)のため報復の軍を起こし、岩城下総守常隆の援軍を得て、那須に侵攻し、山田城(亀山城)を攻め、更に縄釣台(小川町浄法寺)に戦ったが、岩城は白戸淡路、志賀塚備中の二将を失い敗北した。翌大永元年(一五二一)十一月、再度那須に侵攻し、山田城を攻略、進んで烏山城を攻略しようとしたが、川井城攻略に終り、兵を収めて帰国したのである。次の文書は、その戦いにおける那須資房が興野式部に与えた充行状である。
(同平沼文書)
那須資房充行状(折紙)
此度与岩城常陸(隆)山田村縄釣両度之合戦、貴殿軍法故、味方悉得勝利、剰甲頭五拾八、其内侍大将之首二ツ討取被申事、前代未聞之高名ニ候、後代為亀鏡大木須村永代令当行者也、弥子孫可被申伝候、仍如件、
大永二(一五二二)暦 那須太郎
壬午 三月廿三日 資房(花押)
興野式部殿参
那須資房充行状(折紙)
此度与岩城常陸(隆)山田村縄釣両度之合戦、貴殿軍法故、味方悉得勝利、剰甲頭五拾八、其内侍大将之首二ツ討取被申事、前代未聞之高名ニ候、後代為亀鏡大木須村永代令当行者也、弥子孫可被申伝候、仍如件、
大永二(一五二二)暦 那須太郎
壬午 三月廿三日 資房(花押)
興野式部殿参
天文十八年(一五四九)九月廿七日の、喜連川五月女坂の戦いに、興野弥四郎義国は、那須高資の麾下にあって奮戦した。永禄十年(一五六八)二月、佐竹義重と那須資胤の軍勢が下境大崖山に戦った際、興野弥左衛門尉義重(義国の養子)は、資胤の配下に奮闘した。また永禄年間に那須資胤と上那須の諸将(大関高増をはじめ、大田原・伊王野・芦野・金丸等の諸将)と不和になっていたのを、義重は資胤に進言して和睦させた。資胤は義重の功を賞した。
(興野文書)○宇都宮市長岡
興野信嗣氏所蔵
那須資胤感状
今般上庄属佐竹之処、貴殿働を以令帰服之条、致大悦候、依之正宗之鎧通進之候、可被祕蔵者也、
永禄十一年
十月十日 〈那須〉資胤(花押)
興野弥左衛門尉殿
興野信嗣氏所蔵
那須資胤感状
今般上庄属佐竹之処、貴殿働を以令帰服之条、致大悦候、依之正宗之鎧通進之候、可被祕蔵者也、
永禄十一年
十月十日 〈那須〉資胤(花押)
興野弥左衛門尉殿
天正十三年(一五八五)三月二十五日、宇都宮勢と那須勢が薄葉原に戦い、宇都宮勢は敗退した。その戦いに奮戦した興野弥左衛門尉(系図書には尾張守隆徳となっている)に与えられた充行状は次のとおり。
(江田奛氏所蔵文書)○秩父郡荒川村
江田奛氏所蔵
那須資晴充行状
昨廿五日於薄葉原、与宇都宮国綱合戦之砌、味方悉乃難儀、十死一生之所、其方馳来、依尽粉骨計略得勝利、敵数輩討取、剰侍大将搦捕事、高名無比類、手柄之段不可勝計候、然者今度為忠勤、於熊田村永楽五百疋之地知行可被致候、弥子孫可被申伝候、謹言、
天正十三年
三月廿六日 〈那須〉資晴(花押)
興野弥左衛門尉殿参
江田奛氏所蔵
那須資晴充行状
昨廿五日於薄葉原、与宇都宮国綱合戦之砌、味方悉乃難儀、十死一生之所、其方馳来、依尽粉骨計略得勝利、敵数輩討取、剰侍大将搦捕事、高名無比類、手柄之段不可勝計候、然者今度為忠勤、於熊田村永楽五百疋之地知行可被致候、弥子孫可被申伝候、謹言、
天正十三年
三月廿六日 〈那須〉資晴(花押)
興野弥左衛門尉殿参
天正十八年(一五九〇)、那須資晴の没落に際し、興野尾張守隆徳は、興野城を退去し資晴に従って、子息長左衛門隆利を伴い、佐良土に居住した。隆利老年に及び、寛永年中、大関土佐守高増に召され、黒羽に来て食邑百五十石を給せられた。子孫代々大関氏に仕えて重臣であった。(『那須記』『諸臣系略』『那須郡誌』)