『那須系図説』および『諸臣系略』によれば、
「那須刑部大輔資氏次男
羽田信濃守、童名次郎、中頃刑部大輔と云羽田村藤形輪に住す。村の名を氏とす。子孫累世羽田に住す。」
羽田信濃守、童名次郎、中頃刑部大輔と云羽田村藤形輪に住す。村の名を氏とす。子孫累世羽田に住す。」
勘左衛門貞和については、
「勘左衛門貞和、下羽田村に住し、築地の跡あり。正保三年(一六四六)鬮取(くちとり)にして、知行を献じ小給となると伝ふ。」
とあり、貞和の代に至って、下羽田の柿木内(垣の内の訛)に移り、藤形輪は廃址となった。「鬮取(くちとり)」とは、黒羽藩主大関高増(法光院)の時代に、藩財政の改革のため、抽籤により高禄の重臣十七騎をお暇としたのである。右の『諸臣系略』によれば、減禄されたわけである。貞和の子孫柿木内に居住したようだが、その後は不明である。『那須記』には、福原城主福原資郡が、佐久山左衛門尉義隆を佐久山城に攻めた際、
「馳集人々には、半〈羽〉田・沼井・余瀬・金丸・野上・片田の人々八十余騎、ひた/\と出立て、佐久山ゑこそ急ける」
と、羽田氏の名が見える。
また、那須資胤が大関美作守高増を討とうと謀った際、高増これを聞き、
「我先可レ逢二切害一、其間(ヒマ)に軍勢を集めんと領内に相触けれハ、沼野源次・余瀬三郎・飯〈羽〉田・金丸・河田・亀山・野上の野武士等迄、何事やあらんとおとろきさハいて馳集りける。」
と、羽田の名が見える。永禄四年(一五六一)のころは、羽田はすでに大関氏の支配下にあったようである。
以上、中世に活躍した「那須七騎」以外の武将たちの中で、その主なる諸氏について述べたのであるが、那須氏の支族として、ある時期勢力のあった武将たちも、時代の進運に伴い、あるいは没落し、あるいは衰微していった。そうした中で、後に台頭し近世大名となった、大関氏や大田原氏に仕官できて、辛うじて家系を伝えた諸氏もあったわけである。まさに人の世の栄枯盛衰のはげしかった姿を見せた、中世ではあったのである。
羽田氏略系図