前述したように、那須頼資の女が常陸の小栗左衛門尉頼重に嫁いだ時に、那須氏の老臣角田氏(『諸臣系略』によれば、那須野狐狩をした三浦介義明の後裔と伝えられる。那須資隆が高館城を築いた後、その出城として角田庄右衛門は八幡館に居館を築いた。後に子孫奥沢に移り奥沢氏を称した)の女がその侍女となり常陸に行った。そうしてこの女は、小栗氏の一族である小栗七郎に嫁して一男与一を生んだ。角田氏は孫の与一を大そう可愛がり、我が家に迎え取って育てた。小栗七郎は常陸国小栗庄大関郷に住んでいた(『伊王野系図』)ので大関氏を称した。そのゆえをもって与一も大関氏を称した。これが黒羽大関氏の始祖なのである。
頼資の次男資長(伊王野氏の始祖)は、鳥取本『伊王野系図』によれば、文永九年(一二七七)二月八日に死去しているから、その妹の侍女もほぼ同時代の人であろうとし、大関氏の始祖与一は、文永・建治の頃に生れた人であろうと『那須郡誌』は推定している。
小栗七郎の住んでいた小栗庄大関郷は、古くは小栗御厨庄に属し、豪族小栗氏の采邑であった。(吉田東伍著『大日本地名辞書』)『継志集』には「大関は元来は那須頼資代に常陸国小栗大関の子来る」とある。小栗七郎は豪族常陸大掾流の小栗氏の一族であって、この小栗氏は桓武平氏の支族なのである。だから『下野国誌』も「但し大関氏はもと平姓にて、常陸国小栗御厨ノ庄大関郷より出たり」と書いている。
常陸小栗氏略系図を次に掲げる。
太田亮著『姓氏家系辞書』には「丹党と云へど七党系図になし、或は云ふ平氏と、又次の大関氏(藤原北家、疋田斎藤族)の後なりとも云へり」とある。
『大関氏系図』では、大関氏は宣化天皇の後より出た武蔵七党のうちの、丹治の姓としているが、諸本、はやくより大関氏の丹治姓について疑問を投げかけ、大関氏は平姓であろうといっている。
常陸小栗氏略系図