白旗城主大関弥五郎増次は、同じく那須氏の家臣である大田原備前守資清(入道永存)と不和になり、天文十一年(一五四二)、資清に白旗城を急襲され、逃れて石井沢に自刃した。増次の父宗増(在山田城)は資清と和睦し、資清の長男高増をもって大関氏を継がせたのである。この時に高増は大田原氏に伝わっている武蔵丹党阿保氏の系図を持参し、大関氏系図に継ぎ合わせたといわれている。
系図作者は苦心して両系図を継ぎ合わせた。だから与一(高清)出生の地大関村を、丹党の住居地である武蔵国に捜し求め、同名の地があったので「武蔵国児玉郡大関邑ニ居住ス、因ッテ氏ト為スト云フ。」と、『大関家系図』に記したのであろう。しかし作為の破綻があった。
丹治姓は丹治氏から出ている。その源は宣化天皇の皇子、上殖葉王(かみえはおう)の後裔で多治真人(たじまひと)の姓を称した。武信のとき武蔵国に謫(たく)せられ、子孫繁衍し丹党(たんとう)と号した。いわゆる武蔵七党の一つである。大田原氏はこの武蔵丹党の阿保氏の後裔である。
この丹党阿保氏の系図と大関氏系図との関係を図示すれば、次のようである。
『那須郡誌』は次のように説明している。「……武蔵七党系図を見るに、初めて阿保と称せしは、阿保刑部丞実光であって実光に三子がある。(系図)の如く、実光の長子は、伏字になっていて、本名不詳。ここに於て作者は大関与一をこの後裔に擬せんと欲したものであろうが、年代の相違あるを以て、この間補うに実房を以てし、実房の後に高清を継がしめたものと言わねばならぬ。然るに阿保実光は承久三年(一二二一)六月十日、承久の乱宇治橋合戦の際に討死した人であって(『東鑑』)その後嗣実房が畠山重忠に属したという大関氏系図の記載は、直に信じ難い。何となれば、畠山重忠はすでに述べたるが如く、元久三年(一二〇六)四十二歳で戦死し、実光は重忠戦死の後、十五年を経た承久三年に同じく戦死したものであるから、その後嗣たる実房が重忠に属せしとは誤謬と言わねばならぬ。寧ろ阿保実光が重忠に仕えたものとすべきである。思うにこの破綻は、大関与一を阿保実光の後に繋げようとして、『東鑑』を精査しなかった一失より起ったものというてよい。」
以上、系図の作為のあとを尋ねてきたのであるが、諸本にいうとおり、大関氏は常陸小栗氏(平姓)の出であるというのは信じてよい。『下野国誌』が指摘した「もと平姓にて」というのは、大関弥五郎増次(天文十一年戦死)までを指すのであり、大田原氏より出て大関氏を継いだ美作守高増以後を、丹治姓(改姓)とするのが正確ないい方であろうか。系図書とは作られたものであるから、実際とは相違がある。大関増業(ますなり)編『創垂可継(そうすいかけい)』の「家譜」は、その出自を「武蔵丹党を祖とする」の説を採っている。しかし前述のように、一般には「常陸小栗庄の出とする」が、定説とされている。
なお大関氏の家紋等については、「多治(丹治)比系伝」巻九に次のように誌されている。(詳細は『ふるさと雑記』参照のこと)
旗 惣茜(あかね)染 白半月
幕 本幕 地紺柊囲沢潟(おもだか)
替幕 地白朧月
替幕 地白朧月
家紋 抱柊(だきひいらぎ) 柊囲沢潟 虎杖花(いたどり)
替紋 朧月 流鼓
替紋 朧月 流鼓
大関氏略系図