二、大関氏の台頭

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 大関氏の名が世に現われるようになったのは、高清(初代)から数えて六代目の家清からである。
 足利尊氏は弟直義と不和になり、度々抗争があった。正平六年(一三五一、北朝観応二年)十一月、尊氏と直義は薩埵山(さったやま)(駿河国庵原郡興津町の東、薩埵峠。東海道中の難所の一つ)に戦った。(『太平記』巻三十「薩多山合戦事」に詳述されている)那須資忠は小山・宇都宮・佐竹・結城等の諸氏と共に尊氏の軍に属し薩埵山後攻に善戦した。この戦いに大関肥後守家清は那須氏の家臣団の一員として、家の子郎党を率いて参加し奮戦したのである。その戦功によって尊氏から片袖の感状を受け、下野国那須郡の内、松野・大桶の二邑を与えられた。そうして松野(馬頭町松野字畑の台)に館を構えて住んだ。大関氏が豪族となって館を持った最初の人である。
 家清は、その後文和四年(一三五五)三月十三日、那須備前守資藤(資忠の子)に従って、東寺の合戦に討死した。法名東岑道春。東寺合戦の前に、資藤の内裏闖入(ちんにゅう)事件があったが、この時資藤の身代りとなって自刃した大関兵衛増則は、家清の弟であるといわれている。こうしてみると、大関氏は外様ではあるが、那須氏の有力家臣の一員になりつつあったようである。
 『大関家系図』には、家清について次のように記されてある。(再掲)
正平六年辛卯十一月、引率那須勢駿州薩埵山後攻依軍忠為褒賞従等持院尊氏卿以感状御袖衣被成。御判下野国那須郡之内松野・大桶賜二邑。文和四年三月十三日於洛陽東寺討死。法名東岑道春。

(注、大関氏の略歴については、本稿、第三編「拾遣」、「黒羽藩主大関氏系図」「黒羽藩主列伝」参照のこと)


丹党阿保氏・常陸小栗氏略系図