四、白旗城主大関氏

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 ◎七代上総介増清は、善く父祖の業をつぎ、頻(しき)りに領邑を拡大して、黒羽地区十二カ所及びその他数村を併有したとあるが、新たに開田したものか、知行を与えられたのか、庄園の被官化であるか、または侵略によるものかは不明である。それらのやり方を合せて所領の拡大に努力したのだろう。応永年間に白旗城(黒羽町余瀬の白旗丘陵)を築いて移った。余瀬は当時粟野宿とよばれて古くより関街道の要衝の地であり、その名の示すごとく近郊は農産物豊かであったから、勢力拡大の根拠地としてこの地を選んだのは、まさに慧眼と言うべきであろう。『那須郡誌』は、「大関氏の〈粟野宿〉川西村白旗城に移ったのは、常陸佐竹氏の重圧を避けたものと解せらる」と述べているが、これも一つの要因であろう。

白旗城跡
(東側より本丸跡を望む)

 ◎九代右衛門大夫増信について『大関家系図』は、「応永十五年小山悪四郎義政下野小山城之時、那須七将其外諸将馳向、同年十二月二十七日攻取小山城畢」とあるが、応永十五年は誤りである。関東管領足利氏満が関八州に令して、小山義政を討たせたのは、弘和元年(一三八一)であり、翌二年には小山城(祇園城)は落ち、義政は自害している。応永十五年(一四〇八)はそれより二十七年後である。小山城攻略に那須七将が馳せ向かったとあるが、七将とは、「那須・伊王野・千本・大田原・大関・福原・芦野此の七家也」と、『継志集』に記されてある。外様である大関や大田原が、那須氏の一族である伊王野氏や千本氏などと、肩を並べているのを見ると、この時代にはかなり勢力が伸長してきたことがわかる。
 この頃には主家那須氏の勢力が強大となって、関東八家と称せられている。那須資之が弟の沢村資重と不和になった時、資之は資重を討つことを大関増信に計ったが、増信は再度資之を諫めている。しかも遂に兄弟合戦に及んでは、増信は資之(上ノ庄)の軍に従って奮戦している。
 上杉禅秀の乱には、那須資之(禅秀の婿)は禅秀方についたのであるから、『大関家系図』に記された「那須之援兵鎌倉出陣之処、仍禅秀自害帰国也」とあるとおり、資之に従って大関増信は鎌倉に行ったわけである。戦いに敗れた禅秀は応永二十四年(一四四三)三月八日卒した。
 ◎十代美作守弥五郎忠増については、同系図に、「文安五年(一四四八)八月十七日建大雄寺」とある。前述したように、大雄寺はこれより以前、応永十一年(一四〇四)、臨済宗天目山中峰四世孫、劫外和尚が、余瀬の白旗城鎮護のため、城の東北(鬼門)の地に創建したが、那須資之と弟沢村資重が戦った時、兵火に罹って悉く焼失した(応永三十三年)と伝えられている。忠増は二十数年後に同地に再建したのである。「妻小峯城主白川氏女」とあるが、この小峯城主は那須資之と連合して、幕府方と戦っている。(那須氏上下の対立に詳述)そうした関係から、資之の家臣大関氏が小峯氏(白川結城氏より出て、白河郡小峯に城を構えて住む)の女を妻としたのである。大関氏は、名門結城氏と婚姻を結ぶほどに成長したことがわかる。
 ◎十一代常陸介増雄、母は小峯城主白川氏である。寛正二年(一四六一)に、関東公方足利成氏の軍に属し、武州攻略戦に出陣したことや、その外所々の合戦に従軍したことが系図に記されてある。永享の乱や結城合戦以後も、東国では動乱が断続していた。足利成氏は執事の上杉顕定と争った。那須氏は成氏を助けて上杉氏と戦い戦功を立て、成氏より感状を授けられている。大関氏は那須氏の家臣団にあって奮戦した。系図は「於同国(武州)越谷野与両上杉(房顕・顕定)抽軍功」と、その様子を伝えている。文明十七年(一四八五)に黒羽城に卒す、とあるが、この城は旧黒羽城で、「余瀬より館を黒羽町前田石上(いそのかみ)台に移した」と『わがふるさと』は記している。
 ◎十二代美作守宗増、髪を剃って沙弥道丹と称した。明応の頃、居城を黒羽より堅〈片〉田郷山田(山田城)に移したとある。この大関氏山田城(本城は白旗城で、山田城は出城と思われる)は平城であるが、なおこの近くに金丸氏の居館(亀城の本丸の南方)があり、那須氏の築いた山城である山田城(亀城ともいう)があった。

大関氏の山田城跡
(片田下山田,土塁が残っている)

 永正六年(一五〇九)、福原城主那須資親は山田城(亀城)を修築し、実子資久をこの城に住まわせ、那須氏の出城とし、近くに居った金丸肥前守、大関美作守宗増に、資久のお守役を命じた。(「上那須氏の断絶」の項に詳述)
 その後、下那須氏は政資をこの山田城に置き出城とし、引き続き金丸氏・大関氏を補佐役とさせた。
 永正十七年(一五二〇)、白河城主結城義永が千五百余騎を率いて山田城(亀城)を攻撃した時、大関宗増は金丸氏・大田原氏・佐久山氏等上那須の諸将と共に、山田城を守ってよく戦った。(このことについては「縄釣台の合戦」の項に詳述してある。)
 宗増は天文十三年(一五四四)、八十二歳の高齢をもって世を去った。
 ◎十三代弥五郎増次。大いに白旗城を改め築いて住した。これは去る永正十七年、結城義永の攻略を受けた際、平城である大関氏山田城は脆くも潰えた(那須氏山田城は山城で難攻不落)ため、山城を重要と考えたのであろう。
 天文十三年(一五四四)十二月二十日、大田原備前守資清(入道永存)に急に白旗城を襲われ、逃れて石井沢(川西小学校の東)に自刃した。時に二十五歳であった。同じく那須氏の家臣である大田原氏と、大関氏との間に隙ができて、こうした悲劇が生じたことについて、諸本は次のように述べている。(異説がある)
 永正十五年(一五一八)十月、山田城主大関宗増、福原資安(福原系図では資郡)と謀り、大田原資清を罪に陥れた。資清兵を挙げて二名を除こうとしたが、却って宗増等に攻められ逃れ、得度して永存と号した。永平寺で越前の朝倉孝景に会い、「国に還りて復仇を計れ」の言葉に従い、帰国し、益子・芳賀・塩谷等の諸氏の応援を得て大関を攻めようと準備した。たまたま大関増次は家臣五月女越後増行、大沼弾正泰致等僅かの手兵をもって金丸山に狩猟した。秘かに隙をうかがっていた永存八百の兵を率いて白旗城を急襲したので、増次不意を突かれて敗退し、石井沢まで逃れたが遂に其処で自決した。五月女・大沼二氏も討死した。時に天文十一年(一五四二)十二月二十日であった。増次二十五歳。(野史)
 『創垂可継』では、大田原備前守資清が那須氏に逆心を抱いていることを知った弥五郎増次が、那須資房に密告した。資清は剃髪して永存と改名謝罪し廻国に出た。後帰国して増次討伐を計画、偽って那須家の仰で黒羽城に会合し相談の旨があると山田城に通報した。そこで増次僅かの兵をもって山田城を出て黒羽城に出向いた。永存途中に兵を伏せて、増次を襲った。増次防戦したが力及ばず石井沢に逃れて自刃したと記している。
 その他にもこの事件を書き誌した書物や系図がある。大関氏と大田原氏抗争の原因や推移等それぞれ異同がある。増次が天文十一年(一五四二)十二月二十日、石井沢に逃れ、進退谷まってそこで自刃し、五月女・大沼二氏も討死したという点は諸本一致している。石井沢には三名の墓が現在残されてある。居城については、二十日の黎明、増次は余瀬の白旗城を襲撃されたとする『那須郡誌』の説に従う。なお、後に増次の霊を荒人神として祀った丹姓明神を、余瀬の地内に建立したのも、その一証だといっている。
 後に山田城に居った父の宗増(入道宗丹)は大田原氏と和を講じ、宗増に嗣子が無かったので、資清の嫡男高増(時に十五歳)をもって大関氏を嗣がせた。その際、鹿子畑能登(妹は資清の妻)は高増の後見役として付いて来、余瀬に居を構えて住んだ。浄法寺図書高勝(桃雪)・鹿子畑善太夫豊明(翠桃)はその子孫である。なお能登に従って来た侍に、高柳大蔵直清(子孫の源左衛門常念寺を建立)、阿久津茂右衛門光清(子孫は向町白河屋)などがいた。