小田倉の戦いの際、那須勢は一時連合軍に圧倒され、大将資胤が負傷するほどであった。後に資胤は、大関ら上の庄の者が力戦しなかったからだとして、大関を除こうと謀った。大関これを知り、上の庄の諸将と伊王野城に会し、常陸の佐竹と手を組んで、那須資胤との抗争を相談した。『大関家系図』は「同〈永禄〉六年三月二十三日那須資胤起レ兵攻二高増之居城〈白旗城〉一、此時敵就二屏下一、城既危、高増下知而以二矢炮一使レ撃二敵之半故〈数〉一、胴勢不レ続レ裏崩而敗走」と、資胤の白旗城攻撃のことを伝えている。その後も度々争いは繰り返えされたようである。
永禄九年(一五六六)八月、大関高増が主将となり、芦野・伊王野・金丸等の上那須諸将の兵を合せ三百余騎をもって、熊田(南那須町)に出撃した。これに呼応し、佐竹勢・宇都宮勢も那須資胤を撃つべく進軍した。治部内山合戦の発端である。(詳細は「治部内山の戦い」の項に記す)