大関高増を頭とする上那須衆は、那須資胤と無益な抗争を続けてきたが、那須氏の家臣興野弥三衛門尉義成(黒羽興野氏の祖先)が両者にすすめて和睦させた。『大関家系図』には、「同〈永禄〉十一年九月十一日、資胤之嫡子資晴干事十三歳僅従十七八騎入白旗城、与高増和平」と記されてある。この和睦の時に高増は剃髪して入道安磧と称したといわれている。主君に反抗した罪を謝したのであろう。高増悔悟の心の現れである。こうして那須の統一ができたが、那須氏の家臣団にあって、大関氏は筆頭の地位を占めるに至った。和睦成ったので資胤は、佐竹領侵略の攻勢に転じた。この計画には、まず大関氏をはじめ上那須衆の同意を求めている。広瀬縄釣台の合戦における高増の采配ぶりは見事であった。