白旗城から黒羽城へ

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白旗城は関街道の要衝粟野宿を城下町とした。祖先増清以来の居城であったが、高増は度重なる各地での攻防戦の経験に鑑みて、より堅固な山城を必要とした。那珂川に臨む四神相応の地として、この地を選び、進展する戦国の世に対処すべく、新たなる構想のもとに黒羽城を築いて移った。天正四年(一五七六)三月二十八日であった。以後明治四年(一八七一)廃藩となるまで、大関氏代々の居城であった。
 この黒羽城は余瀬白旗城の機構を受け継ぎ、更に改善を加え発展させた複郭型居館形式の城郭である。山城であり、本丸・二の丸・三の丸には石垣は築かず、空壕、土塁をめぐらし(一部水濠もある)防備を固めている。郭内は本丸・二の丸(北城)・三の丸・高柳屋敷上城・八幡館(だて)・内城・中城村上屋敷外城・大宿等をふくんでいるが、築城当時完備したわけではない。(完成をみたのは慶長以後である)

黒羽城址
(向町奥沢地区より望む)

 高増は家中侍の多くを廓内に居住させた。今にその侍屋敷の面影を残している。高増の新たなる構想とは、その城下町づくりにあった。それは近世の開幕を予見した高増の英知であった。
 経済の発展のために、町屋(まちや)を形成した。まず城下の阿久津村(黒羽田町)と向宿の石井沢(黒羽向町)に大道を開設し、地割を施して農民・商人をここに移した。そして農間商業を営ませ、時代の推移に対応させたのである。更に本知高明細書(天正十八年)等により、領内の生産の把握にも努めた。
 こうして新たなる城下町づくりは、大関氏が戦国武将から、近世大名へと転身する基盤の形成となっていったのである。