「資晴依レ為二幼君一、高増毎度指二揮諸軍一其功大也」と、『大関家系図』は記している。主君那須資晴は若年であったがために、高増は資晴を補佐し、家臣団を指揮して度々戦ったというのである。天正十年(一五八二)には、烏山川原に佐竹勢と戦いこれを敗退させた。天正十三年(一五八五)正月には那須氏の塩谷攻め、続いて同年三月には、有名な野崎の薄葉原の合戦に出陣し、那須軍団を指揮した。この戦いには特に大関安磧入道高増、同次子清増父子をはじめ、上那須諸将の奮戦により、宇都宮・塩谷の連合軍を破って、これを敗退させた。以後宇都宮氏は那須を窺うことをしなかった。また同年七月那須資晴は塩谷領の乙畑城を攻略、大関安磧を先頭に奮戦しこれを落城させた。
これより以前の天正六年(一五七八)冬、高増は隠居して家督を次子清増(嫡男晴清は白川結城家を嗣ぐ)に継がせたが、実権は握ったまま、各地の攻防戦には自ら軍を督した。