千本氏を滅ぼす

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高増の女は、千本常陸介資俊の嫡子十郎資政に嫁ぎ一女を産んだが、姑との折り合いが悪くなり、遂に離縁されてしまった。高増は怒りかつ憎み、千本氏を亡き者にしようと企てた。千本資俊は天文二十年(一五五一)に、那須高資を千本城に謀殺した反逆人だから、これを誅戮しその怨を晴らすべきだと、資晴に進言したので、資晴これを容れ、資俊を誅伐することを高増に命じた。高増は弟の大田原山城守綱清・福原安芸守資孝と謀って、千本資俊・資政を滝の太平寺に誘き寄せて殺してしまった。天正十三年(一五八五)十二月八日のことである。(「滝太平寺の変」に詳しく述べてある)千本領を大関・大田原・福原の三氏が分割し、大関氏は四千六百石を黒羽領とした。
 高増には大田原出雲守父子(その策謀が裏目に出て、上那須氏を断絶させた)の血が流れていたとみえ、したたかの策謀家であったようにも思われる。
 高増は天正十五年(一五八七)光厳寺(黒羽町寺宿にある。康元二年(一二五七)、那須肥前守資村が建立した)に隠棲。大虫宗岑に帰依し、未庵と号して仏道に精進した。悲運の将千本資俊の冥福を祈ることもあったろう。これらの事情について、『那須郡誌』は次のように述べている。
 高増が入道して安碩と号したのは、那須氏の条に説ける如く、永禄十一年であるが(野史、那須記)、大関氏系図には「天正六年冬隠居」とある。これ右衛門大夫清増(天正十五年七月二十五日卒す)に家督を譲ったことを示すものであろう。『未庵記』(干時天正十五龍集丁亥仲冬如意珠日前妙心大蟲七十六翁於光厳丈室書)に次の記事がある。
 未庵記
夫扶桑国者海中有桑樹日輪扶之出海依之曰扶桑又喚日号金烏東字分之則日木日木即金烏所栖止也扶桑之東下野州那須之荘大関作州刺史事公容諫則平欺排闥之礬噲、敵軽命則厭倒出師之孔明之将門国老豈非帝闕藩臣乎功成不処構肥遁皐自号未庵々主介或者呈露未庵情実曰熟省我身年己及耳順時澆季也世波険阻恰如氷可憐生雖風花雪月詩歌雅頌之趣孫呉韜略帷幄良籌之蹟況於国家治乱人事盛衰乎未夢見一レ之不如抛万事某山某水投老恋巣許伊呂鹿群鴎侶漁樵斤斧釣竿暮景素志未遂凡区々ノ情在心不言曰未噫多言多慮鍾在未一字古詩云朝市山林倶有累不京洛江湖之為座右銘請師願賜片詞予不揶揄副墨子曰天地未開日太極々々己分乾坤定位日月運数春秋行令禽獣草木一時露出伏犠於爰昼六十四卦乾坤資始既済未済終之蓋未済者未度矣又漢高作宮号未央是又顕王業未央矣昔王敦夢一木破一レ天卜者曰此是未字不動去賈諠曰天下己安己治矣臣独以為未焉彼四君子用未字心未庵之趣如符節也蘇軾曰一弾指頃古来今去縮三世於一日則昨日過去今也現在明日未来既往不咎当来不知今日々々而己鳴呼宇宙之間物換星移朝山暮海千変万化新々流謝念々不停唯不変者未兆無形一物嚢括二儀畏六極出凡聖騰古今矣吾仏四十九季未真実祖師千七百話頭未了公案是什麼到這裡一隅万物却彼我蕩是非唐虞則礼楽坐花酔月逢桀紂則干才戦野攻城亦何妨苦楽逆順仁義礼譲進亦未退亦未三世一心不是々々千〓万境未在々々二六時如此受用則未菴之号豈虚設先先所謂海中扶桑金烏所菱(ヤトル)天哉庵主住居号黒羽黒羽是金烏日木与一木地皆然一門桃李令子令孫蔭涼繁茂益覆海東冬昌到梅里下生必矣仍述一偈遠大
己今当猶鬱葱孫枝子葉棟梁隆金烏収羽扶桑蔭一木深根滄海東
 干時天正十五龍集丁亥仲冬如意珠日
 前妙心大蟲七十六翁於光厳丈室書
(注、『那須郡誌』には『未庵記』、中略なるも、本稿は『創垂可継』(多治比系伝)により全文を紹介する。)


とあって、、天正十五年には耳順即ち六十歳、(実は還暦に当る)に達し、未庵の隠棲を営んだのもまたこの年であることが知れる。然らば永禄十一年に入道して安碩とは称したが、未庵は後の天正十五年に号したものと言わねばならぬ。なおこの時道松居士と称せしものの如く、川西町大字寒井大野室三島神社鍔口(文禄二年の奉納)に、大関閑居未庵道松居士の銘がある。(神社の章参照)慶長三年(一五九八)十一月十四日、病んで没した。齢七十三、両郷村寺宿の光厳寺に葬った。」(系譜、次代より代々黒羽大雄寺に葬る)