近世大名へと転身

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天正十七年(一五八九)十月、伊達正宗・岩城常隆両勢が常陸の佐竹義重を攻めた際、結城義親・那須資晴は佐竹を援けた。大関氏は那須勢の先手となって戦い武名を挙げた。
 翌十八年三月、豊臣秀吉は北条氏政・氏直父子を小田原城に攻めた。秀吉の呼びかけに応じ、高増は那須七騎の先頭に立ち、大田原・福原・芦野・伊王野・千本の諸氏(この時那須資晴は不参)と、小田原の秀吉の陣営に至って、そのご機嫌を伺った。秀吉喜んで見参の諸氏の本領安堵の沙汰を与えた。その際高増は備前利恒の名刀を拝領した。
 那須資晴は秀吉の怒りに触れ、烏山八万石の領地を没収された。佐良土に退いて僅かに五千石を給せられた。高増は亀山城の金丸伊予守義胤を臣下とし、その領地を併合するなどして一万八千石を領有する身となった。こうしてかつての主従全くその地位をかえ、大関氏は那須七騎の頭となり、近世大名へと転身していったのである。