高増の死

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慶長三年(一五九八)十一月十四日、大関美作守高増は波瀾にとんだ生涯を終った。七十二歳。隠棲の地寺宿の光厳寺に葬られた。戒名を「弘境院栽岩道松」という。攻防のあけくれの中に逞しく生き、領地を広め藩政の基礎を築いた、実に戦国武将にふさわしい戒名ということができる。妻(佐竹義元の女)も同寺に眠る。
 ◎十五代右衛門大夫清増 高増の次子、幼名を弥十郎といった。十六代晴増の同母弟(母は佐竹義元の女)であるが、兄晴増が白川結城義親の養子となったので、高増隠居の際、大関氏を継ぐ。天正十三年の薄葉原の合戦には、父と共に奮戦し、宇都宮勢を敗退させた。同十五年に死去、二十三歳の若死であった。
 ◎十六代土佐守晴増、幼名を弥七郎といった。母は佐竹義元の女である。高増の嫡男であるが、白川結城義親の養子となった。後に故あって白川を去り、常陸の佐竹義重の許に客となっていた。ところが、大関氏を継いだ弟の清増が若くして歿したため、その後を継いだ。天正十七年、伊達・岩城の両勢が佐竹を攻略した時、佐竹を援けて武名を挙げた。豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、父高増に従い、その他の那須の諸将と共に、秀吉の陣営に至って謁見した。また文禄元年(一五九二)の朝鮮征伐の際には、肥前国名護屋の後詰となった。同四年病身のため、弟資増に大関氏を継がせて隠居したが、翌五年五月八日黒羽城に於て没した。年三十七歳、大雄寺に葬った。
 ◎十七代左衛門督資増、幼名弥六郎、高増の三男で、母は佐竹義元の女。兄晴増の嫡子政増が幼年であるため、その成長するまでの間、大関氏の家督を相続した。
 慶長五年(一六〇〇)七月、徳川家康・秀忠が上杉景勝征伐のため、軍を率い下野国小山に来た時、大関資増をはじめ那須七騎の面々、家康に謁見し二心なきを誓った。そうして各々、人質を江戸に送った。「大関家系図」によれば次の者である。家臣の金丸杢之助資貞妻、浄法寺越前茂直娘、松本治部右衛門妻、津田光明寺源海妻。資増は家康から宇多国光の刀一腰、金百両を拝領した。
 その時上杉景勝に備えるため、那須七騎を、それぞれ領地に戻らしめ、防衛を厳にした。榊原式部大輔康政が奉行となってこれに当った。榊原は家臣伊奈主水を遣わし、黒羽城の大修理を行なわしめた。城はこの時に面目を一新したと伝えられている。
 石田三成が上方に兵を挙げたので、家康は小山より江戸に戻った。那須七騎に教書を与え、引き続き上杉景勝に備えさせた。関ガ原の戦いが終って、徳川家康・同秀忠は大阪城に入城した。資増は使者を遣わし、太刀一腰、馬一匹、杉原五十帖を献じたところ、秀忠より次の内書(黒羽町所蔵)があった。
 
大坂御入城之儀ニ就キ、使者并ビニ太刀一腰馬一匹杉原五十帖祝着ニ候、当表弥〻平均ノ旨伝へ奉リ候間、心易カル可ク候、尚大久保相模守ニ申ス可ク候。謹言
 十月廿七日        秀忠 花押
    大関左衛門督殿

 
 家康は資増の籠城の功を賞し、下野那須の内、落合村・上稲毛田村・東原村・岩子村八百石の地の加増があった。慶長九年十二月には更に、下野国芳賀郡益子村・中村・深沢・生田目村・清水村・小貫村および奥州石川郡大久津田村・山上村六千石の地を加増せられ、合計二万石の領地となった。同十年政増が十五歳になったので、家督をこれに譲り隠居した。同十二年四月病んで卒し、年三十二であった。
 ◎十八代弥平治政増、幼名平治郎。晴増の嫡子で母は白川結城義親の女。大阪冬の陣、および夏の陣(敵首討取九十七級)に出陣して戦功があった。
 元和二年(一六一六)五月に卒した。年二十六の若さであった。妻は徳川家康の庶腹の女である。シヤム姫と呼ばれていた。水野出雲守重仲の養女となり政増に嫁いだ。在世中、黒羽城の西崖に長松院を創設した(その念持仏阿弥陀如来像は、明治初年に余瀬西教寺に移され、現に県指定の文化財)、長松院(法号)初めて懐胎すると、家康は聖護院門跡が日光に下向した際、黒羽に遣わして修験光明寺において安産の祈祷をさせた。女子誕生し後に福原城主那須美濃守資重に嫁した(『大関家系図』)
(十九代高増以下は、第四章において扱うことにする。)