中世の文化は、まず鎌倉文化から始まる。平安末期の約三十年に亘る、保元の乱から治承・寿永の乱を経て、それまでは貴族社会のみを世界とする文化が、武士政権の成立によって、新しい展開を見るに至った。その新しい傾向とは、それは武士の支配する社会を基盤として、従来の文化の質的転換だといわれている。また新しく台頭した禅林の文化のように武士に維持されて発展した文化もあったが、武士および武士と関係深いひとびとの、中央文化への参加者が、平安時代とは比較にならぬほど増大していった点も、見逃せないという。
こうした新しい方向に歩み出した時代の中にあって、東国地方の北辺、草深い那須地方特に黒羽地方の文化の動きはどうであったろうか。その動きの跡を、鎌倉時代から南北朝時代、室町時代、戦国時代へと辿ってみたい。
那須地方を支配した那須氏は、鎌倉幕府の御家人として幕府に出仕した。新しい都市鎌倉との往復が盛んになっていった。それは単に軍事面だけの行動にとどまったわけではない。鎌倉の新鮮な息吹きを伝え、また新たに勃興しつつある文化を運んだ。更に鎌倉をとおして中国の文化や京都の文化をこの地にもたらした。
勿論それ以前にも、東山道を通じて、京都の、あるいは平泉の文化の移入はあったが、ともあれ、こうして徐々に那須地方にも波及し、浸透してきた新しい傾向の文化は、今日残されている文化遺産の面からみると、仏教文化が中心であり、しかもそれらは武士たちの庇護によるものが多かった。
同じ下野国に於ても、宇都宮氏のように蹴鞠・歌道(一時期宇都宮歌壇を形成するほど盛んであった)の家柄として名をあげた武将があり、また塩谷氏も歌道をもって聞こえたのであったから、那須地方にもそれらの影響なしとしなかったと思われるが、現在それらを伝える資料が、殆ど見られないのは残念であり寂しいことでもある。
従って、ここでは仏教文化を中心に、那須地方の文化をさぐってみることにする。