(一) 雲厳寺開山

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 那須地方特に黒羽における鎌倉時代の宗教改革運動のあらわれは、第一に弘安六年(一二八三)雲巌寺の開山に代表される。東山雲巌寺は禅師高峯顕日(謚号は仏国国師)の開山で、寺伝によれば執権北条時宗が檀越(だんおち)となり、この禅刹を建立したという。高峯顕日は若き日、鎌倉建長寺において宋の僧無学祖元(謚号は仏光国師)について苦行修練した。時宗は弘安五年(一二八二)に祖元を開山に招き、鎌倉に円覚寺を創建しているから、時宗の雲巌寺建立については、祖元と顕日との深いつながりがあったからだろうか。
 ともあれ顕日の雲巌寺や、鎌倉の名刹における宗教活動は偉大であった。博多の崇福寺の大応国師とともに天下の二甘露門と称されその徳風を慕って参堂する雲水は千余を数えたという。その法系からは仏応禅師、夢窓国師ら多くの大宗師が輩出した。当寺は筑前の聖徳寺、越前の永平寺、紀伊の興福寺と並んで、日本四道場の一つと称された。
 顕日の語録や遺偈には、その学殖の深さを思わせるものがある。和歌の一つに、
  われだにもせはしとおもふ柴の庵に
   なかばさしいる嶺のしらくも

 遺偈は、
 坐脱立亡、平地骨堆、虚空翻筋斗、刹海動風雷。
 また絹本着色仏国国師像(国指定の重要文化財雲巌寺蔵)の自賛に
 萬里片雲収秋
 高爽気浮遍界
 不蔵真面目清
 風匝地幾閑休
    明了道人絵
    予幻質請賛
    因為之書
      高峰叟

 とあり、書と画相俟って高僧国師の風格が偲ばれる名品が遺されている。
 雲巌寺二世仏応禅師は、黒羽町大字大豆田礒家に生れた。諱は妙準、字は大平。幼くして雲巌寺に養育され、仏国国師について出家し、難行苦行を重ね、後遂に第二世となった。
 遺偈に
 末後一句、向下文長、処処無蹤跡、地獄与天堂。
 絹本著色仏応禅師画像(国指定の重要文化財雲巌寺蔵)には「貞治癸卯(一三六三、北朝の年号)九月二十四日」と、その制作年代が明記されている。写実的で精密に描かれた室町時代の得がたい名品といわれている。右二幅の画像作品は、現在国立博物館に保管されている。
 北条時宗が創建した鎌倉の円覚寺は、宋様式を採用した伽藍であったというから、同じく時宗の創建である雲巌寺もまた、宋様式をとり入れた見事な伽藍であったろうと思われる。その建築美は、那須地方の他の寺々の伽藍建築に、大きな影響を及ぼしたであろう。
 天正十八年(一五九〇)秀吉の命により雲巌寺は焼かれ、堂塔は灰燼に帰してしまった。現在の伽藍はその後の再建である。
 雲巌寺の点した法燈は、仏国国師以後の長い年月の間に、その輝きに消長はあったが、那須地方の人々の胸に法の教えを説くとともに、幾多の人材を輩出した。