(二) 武将と寺院

257 ~ 259
 那須余一宗隆が創建し、那須資村が康元二年(一二五七)、寺宿に再建した正覚山実相院光厳寺は、鎌倉建長寺(臨済宗、北条時頼建立)より招いた可翁禅師を中興開山とする。雲巌寺と同じ臨済宗の法系であるが、当寺は雲巌寺が禅宗の修練道場つまり学侶の仏教であるのとは異って、領主那須氏の菩提寺である。那須氏累代(十世)が崇敬し、寺内に九院(うち正光庵は資藤の開基)を設けるなど法燈大いに輝いて、鎌倉武士である那須氏およびその一族郎党の精神の支えともなったが、寺院とは別に、那須氏には「御祈祷所」としての温(湯)泉神社があった。那須地方の各地に分知された那須氏支族は、それぞれの領内に温泉神社を建立した。こうして仏を敬い神を祀り、那須氏は在地領主として一族の繁栄と武運の長久、あわせて領内の豊饒と領民の安泰を祈願したわけである。
 支配者の意志は寺社をとおして領民に伝えられると同時に、鎌倉や京都の文化もまた民衆の中に徐々に浸潤していったものと思われる。
  当寺は寺宝として伝えられているものに、烏盞梅月と称する高麗茶碗のあるのは、甚だ象徴的である。この茶碗は開山の沙門一円禅師が中国より持参したものという。舶来品としてのいわゆる「唐物」が、禅僧の手を通じて、この草深い那須地方にも伝来したのである。そうして禅寺において喫茶儀礼が行なわれたであろうことを、この烏盞梅月の名器が物語っている。寺院は文化享受の「場」であった。そしてこれらが民間にも波紋を拡げたであろうが、それを伝える資料が見あたらない。
 那須氏は上下に分裂し、やがて上那須氏(福原城主)は断絶する。那須郡は下那須氏(烏山城主)に統一されたが、光厳寺は勿論、上那須の寺社は衰運の道を辿った。
 安土桃山時代になって、雲巌寺を中興した大虫禅師(京都妙心寺)が領主大関高増に招かれて、再び法燈を輝かせた。以後藩主大関氏が代々崇敬した寺であり、いわば武将の庇護のもとに法燈を点し続けて来たのである。
 武将の建立した寺社で、本人が深く帰依し、厚く崇敬し心の支えとしただけでなく、城館を構築するに際し、その鬼門に当る方向に、城館の鎮護のため、いわゆる「御祈願所」として設け、また城館を扼する要害の地に建立したのもある。伽藍の周囲には土塁を築き、空壕を掘って、戦乱に際しては城砦の役目をも果していたのである。その例は白旗城における大雄寺、帰一寺、黒羽城における帰一寺、大雄寺、青木城における竜念寺、山田城における金秀寺などにみられるのである。
 白旗山帰一寺(真言宗)の創建の年代は詳かではないが、鎌倉時代であるといわれておる。関街道の要衝の地粟野(余瀬)の西方白旗丘陵の南端、すこぶる形勝の地に建てられ、伽藍の規模は大雄寺より遙かに壮大であり、法燈もまた輝いていたという。大関増清が白旗城を築城するに際しては、その城南を扼し、まさに城砦の役割を果した。そればかりでなく、旧蔵の木造聖観音立像(現大雄寺蔵)、釈迦涅槃図(現法輪寺蔵)
はともに県指定の文化財であり、木造不動明王坐像(現白旗不動堂に安置)は町指定の文化財であるのをみると、当寺は価値ある寺宝を有し、文化の面においても輝いていたといえよう。
 粟山大雄禅寺(臨済宗)は、帰一寺の創建よりもおくれて、室町時代の応永十一年(一四〇四)に、臨済宗天目中峰派孫劫外久和尚が開山した。場所は粟野宿白旗丘陵(白旗城の東北)に建てられた。応永三十三年兵火に罹り焼失し、文安五年(一四四八)領主大関忠増により再建され、大関氏の檀那寺となった。当時は白旗の鬼門(東北)に当り、城の鎮護として城砦の役目も果していたのである。
 大関高増の黒羽移城(天正四年=一五七六)にともない、帰一寺は城東の北門近く要害の地に、大雄寺もまた城南要衝の地に移された。(このとき久遠院大雄寺と称し、曹洞宗に改めた)両寺ともに黒羽城鎮護の城砦であったと同時に、武士の精神生活の基盤の一つをもなしていたのである。
 帰一寺は明治維新前火災に罹り、伽藍悉く焼失し後に廃寺となってしまったが、大雄寺は藩主大関氏の菩提寺としてその庇護も厚く、法燈は輝き七堂伽藍は室町末期の様式をよく残して、建築物は県指定の文化財であり、彫刻(仏像)・絵画等価値あるものも多く、中に数点は文化財として県・町の指定である。
 万亀山金秀寺(曹洞宗)の前身は蔵六寺と称した。文治三年(一一八七)那須太郎資隆の八男、八郎義隆が堅田(片田)に分知され山田城(亀城)を築いて住んだ。建仁元年(一二〇一)に、臨済宗劫外和尚を迎え、城の北側の山復に建立し、城の鎮護としたのが蔵六寺である。義隆の子孫が小川片平に移り、城は廃城となり蔵六寺も中絶したが、後に金丸肥前守資国が再興し、大雄寺の末寺となり曹洞宗に改め万亀山金秀寺と称した。蔵六寺は那須氏、金秀寺は金丸氏、それぞれの庇護のもとに法燈を点し、両氏の菩提所となった。
 龍念寺(浄土真宗)は、那須高尾(両郷)の領主青木三河守の懇請によって建立されたという。また元禄の昔、松尾芭蕉が黒羽に滞在中に訪れた余瀬光明寺は、永正年間(一五〇四~一五二一)に烏山城主那須資実が、天台宗の僧無室を招き修験道の寺として中興したのである。当寺の前身は余一宗隆が、文治二年(一一八六)に建立した即成山光明寺(山城国伏見の真言宗光明山即成院より阿弥陀仏を勧請)である。更に八塩にあった心月山長渓寺(曹洞宗、明治八年大雄寺に合寺され廃寺となる)は、大関高増が那須資晴と謀って千本資俊、同資政父子を烏山の滝の太平寺に殺害したその怨魂を鎮めんがため、供養の寺として黒羽城主大関政増が、慶長十五年(一六一〇)に建立した。
 こう見てくると、黒羽地方の寺院で、雲巌寺をはじめ由緒深い名刹は、そのほとんどが武将たちの手によって建立され、庇護されて地方の文化の灯を点して来た。そうしてそれらの寺院では禅宗が大部分を占める。臨済・曹洞の両宗が、いかに地方武士たちの支持を得て展開したかがわかるのである。これには種々理由もあるが、その要因の一つとして、「日本の禅宗がもった祈祷仏教的側面である」と、『日本人と仏教』(佐藤文寿著)は述べている。鎌倉時代の地方武士は禅宗を、そうした側面から把握したのであろうか。だとすれば、鎌倉五山の持った高度な学問芸術は、地方においては容易には理解し難いものであったろう。
 次にこれらの寺院の命運であるが、武士が檀越となって、個人的信仰により建立された氏寺は、武家の消長により盛衰があった。檀越の没落によって中絶した例が幾つか見られる。しかし寺院の文化史的意味からは、檀越の意向とは別に、中央の寺を本寺としてその末寺という関係にあっては、寺院の文化は本寺から末寺へと、細いながらも流れて地方を潤していったようである。