その建立が直接武将の手を離れたと思われる、その他の寺院を創建の年代順に眺めてみよう。
まず、治承四年(一一八〇)創建といわれる、白旗山東泉寺大正院滝本坊がある。奥州の佐藤八郎源信なる武士が、源義経に従って鎌倉に上る途次、粟野宿(余瀬)において落馬し、歩行困難となってしまったので、駅長佐竹昌成(余瀬問屋本陣の祖)がこれをあわれみ、源信を修験者としてこの地に止まらせた。この人物が大正院の開祖である。当時は先に述べた光明寺と同じく修験道の寺である。修験道は平安末期ごろから、日本古来の山岳信仰と密教(天台・真言)の習合して生れた宗教で、中世には隆盛をきわめたという。(『日本人と仏教』)
この地方の異色の寺として、大字河原に尼寺の妙香山円応寺(明治五年廃寺)があった。源頼朝の女大姫、あるいは妹乙姫の侍女が尼となってこの地に庵室を結んだのが、寺のはじまりだと伝えるが詳かではない。尼はこの地を鎌倉になぞらえて、八谷津(はちやつ)・七郷(ななごう)などと名をつけたという。室町時代福原城主那須氏資(墓所は光厳寺という)の女が尼となって円応寺にはいり、那須氏は寺領二百石を寄進した。また大関氏の女も尼となり当寺に住んだ。後世僧寺となった。那須氏が領主であった時代、この尼寺はこの地のひとびとにどのような影響があったか、それを伝えてくれるものは無い。ただ墓石・山門の一部(鈴木福寿氏長屋門)と下馬橋の地名が今に残るのみ。
粟野宿に蓮池山新善光寺と称する時宗(時衆とも書く、一遍を宗祖とする宗派で建治二年=一二七六にひらかれ、遊行宗とも称される。遊行・賦算・踊念仏が特徴だといわれる)の寺があった。当寺の創建は鎌倉初期で、民衆の単なる念仏道場であったという。善光寺如来信仰がこの地方にも及んだわけである。正応・永仁(一二八八・一二九七)の頃に時宗に属したようだ。禅宗の寺院が学侶の仏教であるに対し、新善光寺はいわゆる聖(ひじり)の仏教であったから、遊行上人の御会下には、民衆は念仏の札を受けたり、踊念仏に歓喜したことであろう。本尊の阿弥陀三尊像(建長六年正月廿日鋳造)は、現在国立博物館に納められている優れた作品であって、当時多くの民衆の信仰を受けた名刹であったと思われる。天正四年(一五七六)領主大関氏の黒羽移城にともない、この寺もまた黒羽の大宿(現黒羽小学校校地)に移された。民衆の念仏の寺とはいえ、やはり領主の経済的援助があったわけだ。
これら以外にも個人の、いわゆる氏寺もこの時代に創建されている。余瀬に即成山蓮徳寺(明治初年廃寺)と称し、真言宗沢村観音寺の末寺であった。正平十年(一三五五)三月十三日、足利尊氏が、子の直冬と不和になって、京都東寺に戦った際、福原城主那須備前守資藤に従った粟野宿の土豪余瀬五郎は、主君と共に討死した。それで遺族は五郎の冥福を祈るために蓮徳寺を創建したのである。
次に持仏堂について若干触れておきたい。中世では庄園郷村で名主・地侍といった在地土豪が、信仰修養ないし先祖菩提を弔う場として、屋敷の内外に持仏堂を構えるのは普通のことであった。(『岩波日本歴史9近世、竹田聴洲「近世社会と仏教」)(ところが、黒羽には須賀川二十四堂、須佐木十六堂が今に存続している。
因に水戸城主(五十四万石)佐竹義宣は慶長七年(一六〇二)秋田(二十万石)に転封された。家臣の中で秋田に移らず旧領地内に止る者も多かった。その人たちはあるいは他藩に仕官、あるいは商業に、農業と転身していった。須賀川二十四堂、須佐木十六堂はこれらと関係深いことを『須賀川郷土史』は伝えている。