二、民衆の信仰と生活文化

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 宗教の時代といわれる中世は、まず武士たちが主として禅宗に帰依し、ついで鎌倉末期から南北朝になると民衆が主体的に仏教に結びついていったという。鎌倉新仏教がそれぞれ教線を拡張していったが、それに結びつく民衆の心には、やはり当時の社会不安が大きく影響していたものと思われる。主体的であるがゆえに民衆の信仰は極めて流動的で、固定していなかったようである。従って郷村には幾つもの宗派に属した寺院が併存していた。そのよい例は、大関氏白旗城下町の粟野宿に見ることができる。
 粟野宿では室町時代の全盛期には、戸数三百十四戸あったという。それほど大きい町ではなかったのに、寺院は五(大雄寺、新善光寺、帰一寺、蓮徳寺、常念寺)、修験道三(大正院、光明寺、三蔵院)があり、更に神社・仏堂(加茂神社、愛宕神社、八竜神社、直篦温泉神社、白旗天神、白旗明神、白旗観音)等が併存していて、民衆の信仰のほどがしのばれるのである。そうしてこれら寺社に仕える寺僧、神人たちは民衆の教育者であり、又書記役もつとめ、地域の文化の向上に大きな役割を果していた。
 仏教とは別に、古代から農業は神とともにあって、それは豊年を祈願し、豊穣を感謝する祭とともに民衆の中に展開していった。古代の祖先神、産土神は、後には村の鎮守神となり、民衆は氏子として共同で祀った。家には屋敷神が祀られて、神と仏とが両立し、旅の布教者たちによって講中が組織された。さらに仏教徒によって、印度・中国から輸入された様々な神々も祀られた。こうして神と仏が併立し、他方では神仏習合も行なわれたのである。(岩波『日本歴史』近世5、『現代教養百科事典』6宗教、『那須郡誌』)
 次に幾つかの事項をとりあげて、この地方における民衆の信仰・生活文化の状況を見ていこう。
 ○巡礼
 神仏に祈願するには、一回よりも数多く、参詣するには、一か所よりも沢山の社寺に、そのほうが大きい功徳、御利益があるだろうというところから、百度詣、千社詣、巡礼などが行なわれるようになったという。
 今は廃寺となってしまったが、堀之内岩谷に、鎌倉時代に建立されたという長泉寺があった。同寺は下野第十番の札所として、巡礼者が詣でる世に聞こえた霊場であった。その御詠歌は、
   千代八千代いく世経ぬらむ岩谷山
     長き泉のたえぬこの山

 ○傀儡(くぐつ)
 繰(あやつ)り人形のことである。中世に盛んに行なわれ、田楽や猿楽などとともに神事芸能といわれている。時宗(衆)と深いかかわりをもった芸能といわれ、郷村の中に生れ育ち、「阿弥の文化」の別称もある。やがて都会に出て、貴族や大名に迎えられ、その保護を得て芸術性を高めていった。そして芸術的完成をみた時に、地方性を喪失していったという。
 この「繰り人形」が、白旗城下で上演され、領主も、領民も桟敷を構えて見物したのであった。その上演された場所は、現在東余瀬に「繰り場」と称する跡地がある。
 近くに時宗の新善光寺があったから、興業主はあるいは同寺であったかもしれない。それにしても、室町時代にこの地方に素朴ながらも繰り人形」が常設の場で上演されたということは、文化史的に見て意義深いことであったと思う。
『創垂可継』の封域郷村誌には次のような記述がある。
      余瀬筋違橋
 同村に筋違橋と言うあり。一か所に石橋二つ懸る。是れは往古粟野宿と言いし時よりの橋なりと言い伝う。


余瀬筋違橋付近

      余瀬操り場
 操り場と言いるは、往古御城下なりし時、此処にて定芝居ありし跡とも又時の鍾ありし跡とて古き塚あり。又市場川と云うは筋違橋より市場川までむかし市立ちありし跡なりと言う。

 ○市
 白旗城下町の粟野宿に「市」が開かれた。場所は関街道沿いの、同宿の筋違橋(すじかいばし)と市場川(いちばがわ)(市場があったのでこの名称がつけられた。現在湯坂川)の間で、約二百メートル。その南北に市神を祀った。天正四年大関氏黒羽移城後もしばらく続いたが、粟野宿は次第に衰微して市も廃れた。それで黒羽向町から市神の分祀を乞われたので、延宝二年(一六七四)正月、市神は向町に移された。
 ○信仰さまざま
 郷村の小さな祠や塚には秘められた歴史があるという。次に民間信仰の面からその幾つかをとりあげて考えてみよう。
 堂々たる建造物を有する寺院とは別に、村人たちが自らの手で信仰を選びとり、郷村内に小さな御堂や祠を建て、仏像を安置して信仰の対象とした。その信仰の種類はさまざまである。観音信仰、阿弥陀信仰、地蔵信仰、薬師信仰、不動信仰等々、その他神仏習合あり、俗信あり多種多様である。
 ○観音信仰
 観音とは観世音菩薩のことである。「世に光をあたえる名の持ち主」「なやめる衆生の音声をみそなわす人」を意味して、観世音という。衆生の災難や苦難を救って下さる仏として多くの民衆に信仰されている。不空絹索、如意輪、延命、大聖、馬頭、白衣、十一面千手などとその種類は多い。
 黒羽地方においても多くの人たちに信仰されて、観音堂は多い。満蔵山観音堂、岩谷観音堂、御堂地観音堂、観音堂(大久保)等があり、室町時代に建てられたものが多い。
 北滝にある御堂(深沢友治氏が仕守)には、十一面観音、馬頭観音、恋人観音が安置されている。恋人観音とは俗称である。
 ○薬師信仰
  万病を治癒し、人の寿命をのばす仏として信仰されている。この信仰はすでに奈良時代からあった。薬師堂は、北野上(大関増信創建)、亀久、余瀬その他の村々にも建てられた。また寺院境内にも薬師堂はある。
 ○地蔵信仰
 地蔵菩薩とは、六道(地獄、餓飢、畜生、修羅・人間・天道)の衆生を救うといわれる菩薩のことである。平安後期から貴族の間で信仰が盛んになり、中世において民衆の間に拡まっていき、道祖神信仰と結びついて、村境や辻に地蔵堂が建てられるようになった。六地蔵、子育て地蔵などと名称は多い。矢倉の地蔵堂、北野上大塩の鼻取地蔵堂などあるが、建立の年代は詳かでない。
 ○阿弥陀信仰
 阿弥陀如来は西方十万億土をこえた極楽浄土にあって、凡夫はこの浄土に往生し、如来に救ってもらえるという。浄土門の教主で、阿弥陀三尊は、観音と勢至菩薩を脇侍としている。中野内にある阿弥陀堂には、天正十一年(一五八三)奉納の鰐口があるから、それ以前室町時代に建立されたと思われる。北野上愛吉にも阿弥陀堂はあるが、これは明治初年の建立である。
 右に述べたほかにも、釈迦堂や、久野又の大日堂(大日如来、正保四年建立)、大輪の虚空蔵菩薩堂、前田の白旗不動堂など村々に建立され、民衆の信仰を集めたのである。また民衆の信仰者で組織する宗教団体、つまり「講(こう)」が続々と生れていった。たとえば、念仏講、報恩講、題目講、伊勢講、稲荷講、御岳講、庚申講、十九夜講等々、中世において組織された各種の講の、現代において営まれているのもまた多い。まさに中世は宗教の時代であり、鎌倉仏教は庶民の仏教であったという言葉が、本当に頷けるのである。(『岩波日本歴史』6中世、『現代教養百科事典』6宗教、『日本人と仏教』『那須郡誌』、『わがふるさと』)