(一) 黒羽藩の確立

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 徳川家康は秀吉から、後北条氏攻畧滅亡の論功行賞として関東を賜わり、天正十八年八月一日(一五九〇)江戸を根拠地と定めて新領国統治に努めた。
 やがて秀吉が卒去すると、家康は五大老筆頭としての地位と、豊臣政権の内部対立抗争を利用して権力をかためた。石田三成は家康の権勢に対抗し、慶長五年七月(一六〇〇)挙兵し伏見城を攻めた。同年九月関ケ原における天下分け目の決戦に家康は大勝をおさめた。
 家康は慶長八年(一六〇三)将軍宣下を受け、江戸幕府を開設した。在職二年で、慶長十年(一六〇五)秀忠に将軍職を譲り、駿府にうつり住み、大御所として幕政を指揮した。
 慶長十九年(一六一四)大阪城をめぐる冬の陣と、元和元年(一六一五)夏の陣の二度の戦いに勝利を得て反徳川方を一掃し、武力と経済力とを合せて国家を統一した。
 元和二年四月(一六一六)家康は卒去した。二代将軍秀忠は、家康の死後六年の元和九年七月に将軍職を家光に譲った。在職二十九年、家光に至って江戸幕府の基礎が確立した。
 以来、幕府の政治は幾多の変遷を経て、慶応三年政権返上まで十五代二百六十年間続くのである。
 大関氏が徳川氏の支配下に組入れられ、更に江戸幕府の大名として確立したのは資増、政増に至ってである。
 『旧黒羽藩主大関氏来歴』によれば「慶長五年庚子正月群候牧伯慶賀トシテ豊臣秀頼ニ謁見スルノ日上杉景勝佐竹義宣上坂セス然ルニ景勝逆意ヲ企テ新城ヲ神指原ニ築キ義宣亦一味タルノ旨堀秀治ノ長臣堀監物直政ヨリ注進ス適資増所労アリ大坂ニ在リ即チ檄ヲ以テ本国ハ上杉佐竹ト隣接スルノ故ヲ以テ仮令誘導加擔ノ事アリトモ必同心スベカラザルノ旨那須一統ニ通告セリ」とある。
 当時、那須興市資景、大関資増、大田原備前守晴清、福原雅楽頭資保等は大坂に行っていたので、諸将は「奥州ハ境ヲ接ス疾ク本国ニ下リ城保ヲ堅国ニシ徳川内府ノ動座ヲ俟ツベキノ命アリ」との命を受け、一同それぞれの領国に帰えった。
 特に資増には「黒羽城ハ新将軍ノ陣城ト定メラルゝノ命」があった。先鋒として榊原式部大輔康政の家臣伊奈主水を遣わされ、奉行として黒羽城の修覆を司り、城池ヲ浚い要害を取構えた。更に、岡部内膳正、服部市郎右衛門を加勢として遣わされ篭城した。また、水谷伊勢守を黒羽城の押えとして鍋掛に宿陣させた。其の節、鉄砲十五挺、内三十目弾四挺、二十目弾六挺、十匁弾五挺と弾薬を下された。
 同年七月、徳川家康、秀忠は景勝征討のため出馬され、秀忠は宇都宮に、家康は小山に着陣された節、資増は大田原備前守晴清、伊王野下総守資信と共に石橋駅途中に出向き、秀忠に御目見えし、直ちに小山駅の本営に参上して家康にも御目見えした。殊に本国は奥州境目の地であるので、直ちに帰城し守るよう命ぜられ黒羽城に帰えった。この時、宇多国宗(大関家系図に国光とあり、同名異書に国房とあり、また貞享の書上げにも国房、更に多治比系伝にも国房、大関氏来歴には国宗とある。天保十年の指料改帳には宇多国宗とある。)一腰と金子百両を拝領した。
 同年八月九日、石田三成が挙兵し、家康一味の諸城を攻め討つとの註進があり、家康は結城宰相秀康、蒲生飛騨守秀行等を宇都宮城に留め、「資増亦奥口ノ押トシテ守城初メノ如クタル可キノ命」を下して、家康、秀忠は上国に向った。この時、資増は証人として長子弥平治(政増・九歳)を江戸に差上げ、寄騎金丸、浄法寺の二家と家臣松本・津田の二家と松本隠居がそれぞれ証人を江戸に差出した。(詳細は慶長中の領知の項にゆずる。)
 同年九月十五日関ケ原に戦い大勝した。資増は使者をもって太刀一腰、馬一匹、杉原紙五十帖を秀忠に献じた。同年十月二十七日秀忠より書を賜った。
(注)『秀忠文書』の内容は、第三章「中世」、第二節、「大関氏の台頭」参照

 同年冬、黒羽守城の功を賞され、本領に加えて八百石の地を賜わり、更に、慶長七年(一六〇二)十二月、証人を差出したことにより、家臣の給地を含め五千四百石を加増された。
 大関氏はこのような来歴を経て江戸幕府の大名としての藩を確立し、以後転封されることなく、また幾度かの世継ぎ問題の危機を乗り越えて、明治四年の廃藩まで続いた。