秀吉は天正十八年(一五九〇)八月一日、小田原の後北条を攻略した恩賞として、那須家譜代の国人衆の一つである大関父子、すなわち、高増に壱万石・嫡子晴増に三千石の本領安堵を命じられた。ここに大関氏は那須衆の筆頭として永く続くのである。次いで、資増は慶長五年(一六〇〇)七月の上杉景勝征伐と同年九月の関ケ原の戦には家康に忠誠を尽し、証人を差出した恩賞も併せて同年八百石、同七年五千四百石を加増された。秀吉よりの本領安堵と併せて壱万九千弐百石となった。後の土佐守高増が、二子のため千石ずつ分地したが故あって公料に納め壱万八千石となった。
このような領地の変遷を明らかにするために、領地書上げ(栃木県史・史料篇近世四所載の益子家文書)と『創垂家継』中の「多治比系伝巻八」の御朱印写を主とし若干の文書により校合し年代を追って左に記した。