下野国那須郡
御朱印 大関弥平治知行
一 弐百三拾石壱斗 那須郡之内 八塩
一 百五拾三石壱斗弐升 同 町之分
一 百八拾弐石弐斗七升 同 阿久津
一 弐百三石弐斗 同 堀之内
一 七百八拾六石六斗 同 野上
一 五百九拾七石壱斗三升 同 前田
久野又
針生
一 三百拾四石九斗五升 同 南方
川上
須佐木
一 四百弐拾九石弐斗 同 寺宿
一 五百七拾九石壱斗弐升 大蔵郷
一 九百弐拾五石壱斗六升 同 前田郷
一 弐拾四石三斗四升 同 大谷
一 四百八石 同 大輪
一 四百七拾三石九升 同 大輪須
蓑沢
東小滝
一 百九拾三石壱斗七升 同 大豆田
一 七拾四百三斗三升 同 東金丸
一 百四拾石三斗三升 同 石井沢
荒宿
一 百三拾四石六斗四升 同 中之内
田中
一 百廿四石九斗八升 同 辻
白旗
一 百弐拾六石七升 同 余瀬
道場
光明寺
一 百六拾四石七斗八升 同 蜂巣
あきや
ふつく称
ふくさい
一 百三拾七石九升 同 寒井
一 百六石九斗五升 同 桧沢
一 弐百九拾三石五斗 同 北金丸
一 百拾八石八斗三升 同 長倉
一 五拾四石壱斗壱升 同 小館
一 三百五拾八石七升 同 羽田
藤賀多輪
野間
一 百八拾七石四斗弐升 同 大野室
矢組
比沢
一 弐百七拾九石六斗 同 河田
一 千弐百拾九石 同 須賀川
一 百五拾八石弐升 同 南金丸
根小屋之内
一 弐百九拾四石五升 同 田中村
一 弐百六石六斗五升 同 湯殿村之内
一 拾七石 同 小手沢
一 四拾四石八斗七升 同 湯殿村之内
一 八百六拾四石四斗八升 同 横岡
戦
逃室
松倉
一 千三拾六石八斗六升 同 原之内
めくりや
一 弐百四拾弐石四升 同 大ひら
よしのめ
水塩
岩崎
一 弐百弐拾石壱斗三升 同 こばにう
須なのめ
一 六拾弐石五斗三升 同 川ふくろ
一 四拾七石六斗五升 同 志らい村之内
一 九拾五石三斗弐升 同 阿か沼
蛇沢
石田坂
法師畑
一 百拾四石 同 沼ノ井
あくつ
一 百八拾八石八斗七升 稲沢村
一 百三拾三石 亀山
合壱万三千石ハ 本地
天正十八年
御加増
一 三百九拾七石六斗弐升 森田之内那須郡之内
落合村
一 弐百四石九斗六升 同 上稲毛田
一 百弐拾四石弐斗三升 同 遠原村
一 七拾三石弐斗 同 岩こ村
合八百石
慶長五年
御加増
一 九百四拾石四升 宇都宮之内真壁郡
上大羽村
一 四百四拾弐石壱斗六升 同 下大羽村
一 九百五拾壱石九斗三升 同 益子村
一 弐百三拾六石二斗七升 同 中村之内
一 七拾弐石壱斗九合 同 深沢村
一 三百四拾五石四升九合 奥州岩城之内石川郡之内
大くつ田
一 弐百拾四石五斗四升九合 山上村之内
合三千弐百石
慶長七年
大関内 光明院
一 弐百六拾七石六斗弐升五合 宇都宮之内真壁郡之内
生田目村
一 四拾弐石八斗六升弐合 同 益子村之内
一 八拾九石七斗三升五合 奥州岩城之内石川郡
山上村之内
合五百石
慶長七年
大関内 松本惣左衛門
一 四百拾石四斗八升八合 宇都宮之内真壁郡之内
益子村之内
一 八拾九石七斗三升六合 奥州岩城之内石川郡之内
山上村之内
合五百石
慶長七年
大関内 松本大隅
一 百五拾八石壱斗 宇都宮之内真壁郡之内
益子村
一 四拾弐石 奥州岩城之内石川郡之内
山上村之内
合弐百石
慶長七年
大関寄騎 金丸弥平太
一 三百弐拾壱石六斗六升七合 宇都宮之内真壁郡之内
生田目村
一 八拾七石七斗七升 同 清水村
一 八拾九石七斗三升五合 奥州岩城之内石川郡
山上村之内
合五百石
慶長七年
大関寄騎 浄法寺休太郎
一 弐百五拾三石七斗五升壱百 宇都宮之内真壁郡
深沢村
一 百五拾六石七斗三升七合 同 小貫村
一 八拾九石七斗三升五合 奥州岩城之内石川郡
山上村之内
合五百石
惣都合壱万九千弐百石
慶長十八年三月七日 大関弥平治
御奉行衆様
右御加増之儀は、御朱印も無御座、御書出シも無之候、佐渡殿・相模殿承給ニて御加増被下候、以上
また、家康の命により那須衆の知行高が定まったときの下され書覚によると左のとおりである。
那須衆知行高覚(抄)
一 壱万九千弐百石 大関左衛門佐
此内公儀より家中之者へ被下候左之通
五百石 金丸杢
五百石 浄法寺掃部
五百石 津田勘之丞
五百石 松本治部右衛門
弐百石 松本惣左衛門
右は、慶長五年八月、石田三成挙兵のとき大関左衛門督資増は、証人として長子弥平治(政増、九歳)を江戸に差上げ、同時に家臣金丸杢之助資員妻、浄法寺越前茂直娘、松本治部右衛門某妻、津田光明院源海妻、松本惣左衛門(隠居)妻をも差上げた。慶長七年寅年に証人差上げによって大関資増に八百石、家臣にも五百石宛下された。しかし、松本惣左衛門は隠居なので弐百石下された。この知行高覚は本多佐渡守、大久保相模守より大田原備前守、大関左衛門佐殿になっているが年月日は不明である。またこの覚書の異書もある。
以上、慶長・宝永の書上げと『大関家系図』・『多治比系伝』・『旧藩主大関氏来歴』によると、黒羽藩大関氏の知行高は次のようになる。
天正十八年 秀吉より本地安堵
一万三千石 (高増へ壱万石 晴増へ三千石)
慶長五年 家康より籠城の功により加増
八百石 (資増へ)
慶長七年 家康より関か原戦勝利と証人差出しにより加増
(資増へ三千弐百石 家臣五人へ二千弐百石)
都合壱万九千弐百石
しかし、役儀弐万石相勤めたので都合領地二万石下されと言い、土佐守高増まで続いた。
高増は、正保三年(一六四六)卒去のとき、二男増栄と三男増公に芳賀郡の内千石宛分知した。増栄は、兄土佐守増親が寛文二年卒去すると家督を受けて、先知千石を公料に納めた。また、増公は書院番や北陸道巡査使や南都奉行などを勤めたが、貞享二年卒去し、嗣子がなかったので家断絶となり、食邑を公料に納めた。したがって、増栄は家督を受けたが領地は一万八千石になったわけである。