増興の次は増備であるが御朱印はない。次いで増輔が襲封し、将軍家斉より御朱印を賜っている。
宝暦十一年(一七六一)の文に同じなので省略し年月日のみ記しておく
天明八年二月五日 家斉公御朱印
大関伊予守殿
領知目録前之通同文故畧之
青山大膳亮幸完判
松平右京亮輝知判
大関伊予守殿
以上、『創垂可継・多治比系伝巻八』によったが増陽以降は御朱印の写はない。『大関家系図』によると、増昭が将軍家定より、安政二年(一八五五)三月六日御朱印を賜っているのみである。
しかし、美作守増陽のときの文化八年(一八一一)十一月九日命により、芳賀郡下深沢村之内高五百九十石を公地とし、那須郡之旧領板室・須佐木中組の両村を代地として賜っている。したがって、増昭の御朱印は本高壱万八千石はかわらないが、目録は以上の点が天明年中のと異っていると思われる。