大関氏家臣団の構成については『往古以来家中分限記』(黒羽町蔵)と『栃木県史・史料篇近世四』によることにする。
「天正・元和の検地帳に有之名前方」については、右衛門佐高増(大田原資清嫡子)が大関増次の名跡を相続したときの附人鹿子畑氏・高柳氏や那須の支族滝田・木須・羽田氏や譜代以外の大沼・矢野氏等の各氏の家譜から推察すると、旧大関氏家臣と新大関氏すなわち、高増以後の家臣とが入り交っている。しかし、これらはいずれも検地帳に名前が有るところから、給人で地方知行地を有していたと思われる。
「寛永年中分限帳」には五十四名の公知衆・給人がおり、知行高・知行所・旗指物が記されている。知行高は〆て壱万三千弐百四拾六石におよんでいる。また、中小性衆・御歩衆の名が連記されている。
「万治元年分限帳」には給人・諸扶持高と氏名が記されている。この分限帳には家臣団の組織が記され、黒羽藩初期の藩治職制の一端がうかがわれる。
以上の分限帳から、支配体制の確立は、家臣団として組織的になりつゝあることが推察される。しかし、給人の地方知行制が農民手作りのもとに続けられて、次第に藩財政の窮乏と百姓の困窮へと進んで行くのである。