大関氏は、秀吉による領知安堵と、家康による領知安堵・加増によって、幕藩体制下の近世大名として移封されることなく、黒羽藩として確立した。また、家臣団も、往古以来の家臣と、美作守高増以後に召抱えられた家臣とによって構成されていた。しかも、公知衆と上層家臣の地方知行制が、農民手作りのもとに成り立ち続けられていた。
江戸幕府も、三代将軍家光に至り、諸法令が施行され、国内が平静になると奢侈の風が起ったので、家光は身ずから戒諭したり、倹約令を出した。また、寛永十九年(一六四二)春夏の間全国的に飢饉が襲った。
かかる時、黒羽藩においても、領主権力の確立と財政建直しのため、家臣団の再編成と知行高の蔵入化がはかられた。この最も大きなものは、正保二年(一六四五)土佐守高増の家中払いと、寛文二年(一六六二)信濃守増栄の知行地の検地による「家中大くるい」による給人一同の立退きによって行われた再編成である。また、検地による新田打出地の蔵入化と給人物成の「四つならし」の実施である。