「多治比系伝巻五高増之伝」によると「家説云此時代戦国を去る事不遠是以家法多く乱世之式なるを以て治世之法例を考へ定て諸民を撫育し士を愛し専ら政事之法を正し当家之万法は皆此時に始る事多し封邑中云々」と記されている。
高増の治世の法とは不詳であるが、非凡な藩主であったようである。領主権力を確立した高増は、正保二年に家中払いを断行し十七名を召放った。
『往古以来家中分限記』には「拾七騎鬮取ニ而御暇被下候面々」、興野隆賢『蠖斎随筆』には「十七騎鬮取ニ而御暇被下候面々」の記録の外に若干の記録が残っているが後者によると次のとおりである。
十七騎鬮取にて
御暇被下候面々
三百石 松本伊左衛門
三百石 蓮実清左衛門
百五十石 下条平八
百五十石 興野与左衛門
百五十石 松本勘左衛門
百五十石 木須文右衛門
百五十石 羽田伝右衛門
百五十石 小嶋六左衛門
同 三木吉左衛門
同 人見市郎右衛門
同 人見権左衛門
同 木村新兵衛
同 益子孫兵衛
百五十五石 中村半左衛門
百五十石 松本伊兵衛
同 五月女吉右衛門
同 池沢孫右衛門
〆千五十五石
二千八百五十五石か
右は正保二乙酉年
右ノ十七騎之内興野与左衛門名前は菊池孫左衛は(トか)間違認之由今之木須善兵衛資甫考也