2 寛文検地と立退き事件

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黒羽藩主も高増―増親を経て増栄の代になって、いわゆる「黒羽藩寛文検地事件」と称せられる事件が起った。これは、先代の万治から寛文二年増栄が家督を継いだ頃、黒羽藩財政確立のために、藩初めての本格的検地を給人地行地に行い、新田打出地の蔵入化と、給人の「四つならし」の実施に端を発して起ったものである。
 この事件については種々な記録があるが、公式的な記録としては、増業編の『多治比系伝巻五・増栄之伝』のみであり、その全望は詳かでない。しかし、覚書である『往古以来家中分限記』や益子家文書(宇大図書館蔵)の宝永八年二月書上げ覚」、または、興野隆資『蠖斎随筆』中の木須太左衛門留書」、あるいは水戸領小口村大金重貞『心鬧登下集』の物語等によって概略知ることが出来る。
 『多治比系伝巻五・増栄之伝』に「此頃家臣に鹿子畑左内と云者あり家臣等之知行処へ検地之棹を入る知行取之給人十八人墳怒し彼之左内を申請度并己〻が我意之条〻を書立若願之通りまかせさる時ハ一統暇を取るへき旨強訴し江府公義へ出せし所主人之差図をうくへき旨なれハ各〻永之暇を遣し静謐に至候事云々」とあり、「公義への口上覚」や「給人共訴状之条〻」と、この解決策の実施結果によれば、必ずしも検地のみの不満でなく、家格の者の古法古格の改革を前面に押立てていることを、今日までの諸書には見おとされている。
 宝永八年二月書上げ中の覚に、万治年中からの検地開始の理由と始末が記録されている。「一 信濃守兄土佐守代、先年より有来候、領内土帳少々江戸へ召登セ置候、酉ノ年大火事焼失仕候付、検地改申度由、神尾備前守殿へ申上候得は、御老中へ御伺可被下由ニて追付不苦之旨御下知ニ付、検地仕候、過半改候時分、兄土佐守相果、当信濃守へ跡職被 仰付候て右之検地相済申候、いにしへより地方ニてとらせ来り取米高下御座候ニ付、四ツならしニ仕、右家来共ニも本高とらせ申候間、不足を申出四年以前暇を取罷出候、右之内浄法寺図書と申者ハ相勤罷在候、弥尋之上可申上候、以上 月 日」「信濃守増栄公御代検地有之 金丸・津田等立退候、其後江戸表へ罷登、御願申上候由、此節御取上無之、重て罷出候は大関方へ相渡可申由、御老中様より御沙汰之由相止黒羽へ不帰
金丸ハ阿波大守、稲田寄騎ト成之由、津田ハ浪々子孫岡本改、和郡山ニ勤之由」のとおりである。

 興野隆資『蠖斎随筆』中の「木須太左衛門留書」と『心閙登下集書抜の給人廿九人御暇名前』にある事件の概要の記録は伝書『黒羽旧記抜萃』と同じである。しかし、「木須太左衛門留書」と『心閙登下集書抜』や『往古以来家中分限記』や『黒羽藩伐辰戦史資料附録中』の御暇給人名等に異同がある。ここでは『蠖斎随筆』中のものを次に載せておく。
 
  公知衆
 五百石                  金丸杢之助
 六百石                  津田八郎左衛門
 二百石                  松本源吾左衛門
 〆千三百石
  此衆ハ一人宛御暇被下候衆
 三百石          乗打ニて御暇  大関七右衛門
 二百石          物頭      大谷庄兵衛
 百七十石         五人衆     白石甚吾兵衛
 百石           郡奉行     岡本彦兵衛
 百石           大目付     岡本六右衛門
 百五十石                 近藤弥三右衛門
 五百石          御養子事にて  大久保弥二右衛門
 五百石          惣勤之衆    鹿子畑左内
  〆二千百二十石
    二千二十石か
 
 二百石                  猪苗代平七
 百七十石                 班目孫左衛門
 百七十石                 大関六左衛門
 二百石                  芦野長右衛門
 二百石                  桑島左近右衛門
 百五十石                 金丸弥左衛門
 百五十石                 木佐美次郎右衛門
 百五十石                 人見角右衛門
 百五十石                 石原刈右衛門
 百石          大小性分     松本伊左衛門
 百石           同       大関五郎左衛門
 百石           同       井上十郎衛門
 百石           同       滝田仁右衛門
 百五十石                 服部六郎左衛門
 三百石                  松本八郎左衛門
 四百石                  稲沢宇右衛門
 二百石                  岡源十郎
 百五十石                 小野田弥内
 百五十石                 宇野又五郎
 百五十石                 大関与五郎
 百五十石                 井上又左衛門
 三百石         後百五十石ニ成  蜂巣源兵衛
 百石                   矢野勘兵衛
 百五十石                 風野助右衛門
  〆四千四百四十石
 
   其後浪人之衆
 百五十石                 小嶋郷右衛門
 百五十石                 鈴木甚左衛門
 百石                   小川甚吾左衛門
 百五十石                 大塚藤左衛門
  〆五百五十石
   此外中小性分 数多
 惣〆壱万弐百六十石
    壱万千六十五石か
 
右之木順太左衛門留書ハ江戸御成小路御屋舗、御住居中御次之間日記より資長勤番之せつ書抜之由、今木須膳太兵衛資甫より借用写之

 
 なお『心閙登下集書抜の給人二十九人御名前』に二十九人の氏名が記され、続いて事件の概要が記されている。
「右給人二十九人寛文ハ戊申年正月八日興野権右衛宅ヘ一同呼寄、永之御暇被下置之旨権右衛門ヨリ申渡之同九月十日両日二十九人不残立退
 但右給人二十九人御暇ハ寛文ノ初時ノ老職鹿子畠左内が計ニテ、諸士ノ給地一統へ検地ヲ入レ出石ヲ取上ケ剰其頃ノ公知衆松本源吾左衛門 津田勘之允 浄法寺図書 津田光明寺が給地ヨモ検地シテ出石ヲバ召上ラレケルヨリ事起リ寛文五年ノ冬松本源吾右衛門、津田勘之允 津田光明寺三人ハ立退シニ依テ右ニ十九人御祈願処歓喜院へ寄合神水ヲ呑及訴訟鹿子畠左内ニ切復サセン事ヲ立左内ハ御暇ニ成リ奥沢村へ引取左内御物成米永ハ大関勘右衛門殿申分トテ無相違給リ尚又二十九人ノ内大久保弥市右衛門ハ左内が姉聟ニテ連判ヲ破リシヨリ事起リ右ノ二十九人御暇トナル
又鹿子畠左内御暇ハ寛文七丁未年五月十八日ト見ヘタリ公知衆三人立退ハ寛文五年ノ冬ナリ中一年ハ訴訟等ニテ隙取寛文八年ニ至リ二十九人御暇ナルベシ」

以上、諸記録で事件の概要を知ることが出来るが、大金重貞『心閙登下集』はこの事件を興味深く物語化しておる。どの程度の信頼性があるかは不明であるが参考となろう。『栃木県史・史料編近世四』に宇大図書館蔵・「益子家文書」による抄録が載せてある。
 
 以上のように、正保二年の召放ちと、寛文五年から八年にわたる公知衆金丸・津田・松本の三氏並びに給人二十九名の立退きによる「大くるい」は、黒羽藩の地方知行制の制限という手段によって進められた。この家臣図の再編成と財政建直しの結果をうかがいうる資料として唯一なものに、次にあげる『寛文年中惣給人知行高所付』の文書がある。