4 地方知行之節御触写

302 ~ 303
       覚
一、知行所取扱ニ付家来可致吟味事

一、知行所高之内手作不可致事

一、大阪江戸番之留守百姓番等申付間敷事

一、他所へ百性飛脚ニ遣間敷事

一、百性身体不成ニ付田地他所へ相渡候節、其身心次第ニ仕らせ可申事  射射射

一、苅ほしからせ百性ニ附送セ候義、向後無用之事

一、苅ほしからせ百性ニ附送セ候義向後無用之事

一、葛葉とらセ取候儀無用之事

一 遠方へ罷越候、節湯本ハ高久、日光筋は大田原、烏山筋ハ皿戸(佐良土)、白川筋ハ伊王野迄、其外何れへ成共右之道のりを以人馬遣可申候事

一 やとひ萱百姓ニから 附送り無用之事

一 手作等之節ハ先年被 仰出候通百性遣申間敷事

一 屋作普請修理破損等は百性遣可申事

一 百石ニ付歩銭弐貫文、尤め銭抜取納可申事

一 堰川除之節は御蔵給所ニよらす郷奉行方よりわり付次第竹本可木出事

一 薪こらせ候儀、百性隙ヲ見合セ壱年ニ百石ニ付百駄こらせ可申候事

一 百性如何様之候共其成目付郷奉行へ相改可申候事

 右之通堅可相守者也
     卯十二月廿八日
   右之通御触有之、年号不知
(宇大図書館蔵益子家文書)

 このお触書きは、給人知行所の百姓支配が続けられ、次第に貧困になって行く過程におけるものである。しかし、一度のお触書が、即座に旧弊を打破するものであったとは断じられない。『栃木県史・史料篇近世四』中の「鈴木重次文書」に載せてある延宝五年十月「鈴木武助知行所付・百姓付帳」はその証拠となるものである。『諸臣系略』の鈴木武助家歴をみると、七左衛門正高が「本源大君の時召出され青木村で食録百五十石の地を贈り勤方詳かならず」とある。興野隆賢『蠖斉日記』中に「右二十九人御暇後御抱ノ給人并無足ノ中ヨリ給人被 仰付候面〻左之通(四人略) 百五十石 江戸ヨリ 鈴木七右衛門」とあるのが正高であろう。正高の次が形部左衛門正生で「はじめ名武助といふ本源大君より(略)正生追ひ/\加録を給り蜂巣村お多賀村若林村において都二百五十石を知行し勤方徒士頭にいたる云々」とある。この知行所文書は、まさに寛文の家臣召放ち後に新規召抱えられて、給人地方知行所持になり、田三つ二分・畠四つ等一部蔵入化が実施されていたとは言い、百姓支配が続けられていた証拠である。続いて貞享四年の文書にもみられる。ともあれ、元禄元年増栄(卒去は元禄元年十月十二日)代に抵抗を廃して全知行地の蔵入に極った。