5 文政二年中

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増業は、文政元年十月に古法古格の一層の充実を願って、次のように仰せ出されている。
 「増恒公御代当家之式法諸士之分格厳重ニ定るといへともいつとなく流れ増備公御創業之思召茂有といへ共御早世二而果し給す其御内意の遺書を潤色して其規矩を知らしむる事左の如し云々」と役の上下、あるいは家筋之分限に相応じた式法を守ることを訓した。これは、直接職別を守り、職務を遂行する上に基範となるものである。
 『創垂可継の規定雑類附録』の分限帳はまさにこの趣意にのっとり定められた。凡例によれば「此書藩中諸士家格分限之順席にして文政二年己夘春改め誌処也」とある。
 給人家(石取二十八家・扶持取十家)大小性家(石取三家・扶持取十九人)医師(石取三家・扶持取二家)徒士之家(扶持取三十二家)
この分限帳に記されている諸士(上士・中士・下士)の支配を受ける小役人がいる。これを小流・大流その他に分けて各々役席順が定められている。これは増業によって明確にされたもので貴重である。
小流・大流(省略)
①創垂可継十五~十七 規定雑類上中下附録 文政二年春改分限帳

② 仝   三十七~三十九 諸職条約上中下
③ 仝   四十     諸職誓文按全


家老始め諸役まで職務上相守るべきことを神文前書し、奥書きに左記のように書いて藩主に出させた。
 右之条〻於相背者
梵天帝 釈四大天王惣日
本国中六十余州大小神
祇殊温泉大明神八幡大
菩薩可蒙神罸冥罸者也
仍起請文如件
 年号月日  名 実名書判血判

天保・嘉永・安政・元治の職別については増業が整えた職制を改めながら行ったようである、しかし、増業が隠退すると改革は古法古格に戻ったと言われている。だが明治二年正月改の諸士仲間筆順帳をみると基本的には継続されているとみられる。
給人・寺社知行高表
寛永19年
(石)
万治元年
(石)
寛文年中
(石)
一門13,24612,63710,140
寺社1358,9351,289