五 町村支配の制度

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 近世における町村支配機構は、幕府領・藩領・旗本領共に差異はなかった。大別すると、公儀・領主による政治支配と村自体の議定による支配体制の維持である。前者は、財政収入源である年貢の完納の重視からの仕法である。すなわち作毛検見・検地・免の仕方と農民の心得等の触書である。後者は村民の自発的規約や申し合せの実行統率である。いわゆる村議定と称されているものである。
 藩の町村支配の下部組識として、地方三役と称する、名主・組頭・百姓代が置かれ、大小百姓を統率した。名主には、割元名主・代々名主・年番名主があり、年番名主以外は大方家柄による世襲であった。年番名主の場合には、領主の任命・村中選挙・村願い出などによった。最末端の百姓には、長(おさ)百姓・小前百姓・水呑百姓・門百姓の階級があった。図式すると次のようになろう。



 公儀による政治支配の中で、お触れを、百姓町人に知らせるには高札によった。高札の始めは、家康が征夷大将軍に任ぜられた直後である。以来用いられて来た。享保年中に「向後急度相触候事は札に認め出し置候間其旨可相心得」と、高札の公布式であることを示した。厚札に禁令の箇条を墨書し、郷村の一定の場所に掲示したものである。その建てる所定の場所を高札場として除地にしている。
 黒羽に現存する高札は、大久保・矢倉・両郷にある。明治太政官のものが多いが旧幕時代のものもある。
 議定は種々の内容のものがあるが、大豆田礒正次家文書「大豆田林 村内議定覚」がある。「一此度名主又右衛門殿 御役御免ニ相成候ハヽ後役誰江被 仰付候共村内議定左之通」と役元諸勘定・往来役小普請役其外諸役・家中定役・御検見諸役・米永年貢上納・村金頼・名主役・小前難儀之筋取極をしており「右之通り議定致候上者此末何事不寄村内一統打和シ相談致可申候事 天保五年午正月礒重兵衛外十一名の名前印」があり「右之通村内一統相談之上取極申処実正ニ御座候以上」と結んでいる。