3 五人組

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五人組制は、大宝の制から形はあったが慶長二年秀吉が初めて発布した。江戸時代になっては、寛永以後しばしば法令が発布されたが、享保年間になってほゞ完備した。五人組前書証文に連判し、その実行には相互に扶助し、なに事にも連帯責任を持たせられた。毎月再三読み諭し、違背の者がないよう誓わせた。大平洋戦争中の隣保班制度はこの五人組制度の現代版である。
 黒羽藩における五人組帳は次のとうりである。
①元禄四年末正月 下野国那須郡寺内村五人組御政帳八木仁兵衛様
元禄四年(一六九一)正月分の末尾には領主名はあるが、五人組の名は「誰、たれ」となっている。末尾に元禄四年正月の前文をもって元禄五年甲正月と元禄七年戊正月の五人組連名押印が付けられている。(略)

(北滝・五味渕寛家文書)

②寛政八年辰年正月 五人組御仕置帳
吹上御役所宛である。前文のみで五人組連名押印はない。

(両郷・渡辺禎治家文書)

③天保七年申年 差上申一札之事
前文のみで五人組連名押印はない。

(大豆田磯家文書)

④天保八年酉年八月 五人組改帳 須賀川上組
前文がないが五人組連名と組頭の押印があり、黒羽藩安藤三郎三左衛門外三名宛になっている。

⑤天保十四年卯年二月 五人組改帳 須賀川上組
前文がないが五人組連名と組頭の押印があり、黒羽藩鹿子畑宗兵衛外三名宛になっている。

⑥弘化二年巳年二月 五人組改帳 須賀川上組
前文がないが五人組連名と組頭の押印があり、黒羽藩興野新太郎外四名宛になっている。

(④~⑥須賀川 菊池定治家文書)