(二) 藩政改革

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 黒羽藩における領主権力の確立と財政立直しのための具体的な政策は、正保二年(一六四五)の家臣鬮取りによる召放し、寛文二年の恩給地の整理、地方知行制の改変であろう。これは、多くの問題を残しながら大きな改革であった。

創垂可継三役預り控(箱書)

 『創垂可継・諸臣系累一』の益子又衛門信逸の経歴の中に「延宝八年益子近邑乃農民等騒動に及ふ事あり旧縁乃地なる故に罷越取鎮む辺きの旨仰を蒙りこれを下知し翌酉年まで彼地の沙汰の事越預り勤む此時本源大君より云々」とあり、いわゆる百姓一揆が起った。しかし、全領地の検地を行い本高一万八千石に対し一万一千四百石余の新田打出をした。(三田弥平「甘棠遺録」)
 延宝八年の百姓騒動から八年目の貞享五年四月末(同年九月三十日元祿と改元。同年十月廿二日増栄死去)に「給所百姓共地方迷惑ニ候間蔵方ニ被成被下候へとはり文落文致(略)公儀を気遣於会所内談有其節浄法寺図書。源清(津田)召加候得と増栄公御意ニ付て内寄有之五月七日ニ御前にて御相談有(略)され共御前ニハ阿らため蔵方ニ被成候事御心ニ合不申候へ共小役人之内蔵方の願心底有之終に蔵方ニ極り申候増栄公御代也」(津田家旧記抜書)と記されている。こうして全く恩給地・地方知行地の蔵入化が終わり、藩主権力と財政基礎が確立した。これは全国的に見られる幕藩体制下の藩政改革過程と一致する。
 こうした改革も、全国的な商品経済の発展や武士・農民の生活の変化、それに年貢・運上増徴の強化にのみたよる政策の貧困などによって、次第に幕藩の財政の危機を迎えた。
 黒羽藩は常陸・奥州に境を持する小藩で、領内には八溝山・那須山があり、山麓に広がる不毛の那須野ヶ原や山地が続き、わずかに低地を流れる那阿川や支流、あるいは武茂川の流域に耕地を持つ扇状地である。下之庄といわれる芳賀益子を中心とした飛地も、八溝山系の末端にあり、上之庄と同じ狭い耕地を持つ地域である。
 経済を支える生産物も少ない。『創垂可継・租入会計上』の「租入目安并渡辺定法」中の「運上取立定法」(文化年中)があるが、その中に生産物と思われるのは酒・馬・糀・漆・砥・明礬・硫黄・瀬戸焼・たばこ・穀物・紙・木炭などがあげられている。同書に「諸運上金納金 五百両ハ 廿二箇所之運上取立也」とあることからも、文化年以前は微々たるものであったろう。
 黒羽藩の困窮は、享保に至ってひどくなり、享保二年(一七一七)に最初の家中借上げを行った。(秋本典夫「黒羽藩権力の性格」中、益子信将「勤方心得書」宇大図書館蔵)こゝに至るまでに、家中諸士や領内百姓・町人にしばしば触書きを出した。延宝三年(一六七五)の触書には、百姓の耕作出精を奨励し、元和三年(一六一七)には、祭礼法事をいよ/\軽く行うこと、百姓町人の着用する織物は分限に応じることなどが触れられている。(那須町誌)家中に対しては、享保八年(一七二三)より、勤向についての仰出されがあるが、ここでは倹約についてのみ記す。