借上割合覚
一、知高百石以上 半知
一、弐拾人扶持 五人通
一、拾五人扶持 四分通
一、拾人扶持ゟ 三分通
七両弐分三人扶持迄
五両五人扶持迄
一、五両三人扶持ゟ 弐分五厘
三両ニ弐人扶持迄
一、三両弐分壱人扶持ゟ 弐分通
弐両弐分壱人扶持迄
一、弐両壱人扶持ゟ 壱分五厘
壱両弐分壱人扶持迄
一、三両弐分部屋住之輩 壱分五厘
一、寺社百石以上 六分通
一、寺社五拾石以上 五分通
一、寺社四拾九石以下 四分通
右之割合ニ而三人扶持以上ハ米金ニ而借上右之外無勤之族者三人扶持以下共ニ米金ニ而五分通借上申付候
寅五月
前回とくらべると、上層の家士に重くなっているが、倹約令に共通して言えることは、借上割合覚「物成方畑方不残借上」とあり、また「役料有之面〻者役料ニ右ニ込ル」ともあることであり、いかに「重きお借上げ」であるかわかる。
藩には式法があり、当然重んじられた。各家には家格があり、これも藩政の中で重んじられて来た。そうした中での借上げは、たとえ勤方が軽くなったとしても、容易ならざることであり、借上げと称しても、返済の定かでない借上げであることを思えば、家臣の窮乏が明らかである。
家中借上げに止まらず、領内からの献金や御用立金の徴収も行なった。宝暦十年正月大輪村平大夫からの借用書がそれを物語っている。
証文
金弐拾九両壱分ト
永百五拾九文 但米代金ニ而
右之金子御台所江借用候処実正也年壱割八分之利足を加当暮物成米を以元利可及返済候為後日仍而證文如件
宝暦十辰年正月 杢右衛門印
藤大夫 印
三郎兵衛印
武助 印
大輪
平大夫江
(大輪吉成隆家文書)
宝暦の台所借用証文(吉成隆家文書)
この証文のほか「宝暦十年辰年正月、金参拾五両壱分者(以下前文と同じ)」を右三者連名で平大夫から調達している。こうした窮乏を脱するため、部屋住であった大関増墨(後増備)は、宝暦十三年春「政事改正考」を草按して倹約による財政建直しをはかった。しかし、家督を継ぎ一年足らずで卒去したので実らなかった。