五 明和から享和の改革

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 宝暦年中まで度々の倹約令や御触書が出された。倹約令の重なものは前に記したが、御触書については『栃木県史・史料近世四』・『那須町誌』その他の文書によると、耕作出耕・名主五人組取締・虚礼自粛、年貢皆納・運上金上納・山漆仕立方・杉桧仕立方・家中ならび諸奉公人への音物停止・間引禁止ならびに養育米支給・領主・役人廻村の節倹約・無尽停止等々数多くある。
 明和から享和の藩財政窮乏のため、献納金や御用立金がしばしば申付けられた。次にその証文を記しておく。
     証文
  金拾四両
   永弐百四拾五文 但米四拾九俵代金
右者御台所為御要用借用候義実正也年弐割之利足を加当暮物成米を以元利無相違可及返済候為後証仍而如件
  明和二酉年六月    藤円 印
             藤大夫印
             治兵衛印
              大輪
                平大夫
                   江
                長大夫
     証文
  金百拾三両壱分ト
   永八拾文
右者追〻御台所江借用候処実正也為利足借用中年〻其方上納米之内ニ而米拾俵宛可相渡候為後証仍如件
  寛政二戌年     与惣右衛門印
     九月     源兵衛  印
          大輪村
            忠左衛門江
 
     証文
  金四拾両也
右之金子口入を以御台所江備用申処実正也年壱割八分之勘定を以利足を加え利来月中可及返済候為後証仍如件
  寛政五丑年     与惣右衛門印
     九月     源兵衛  印
          大輪村
            忠左衛門江
(以上三枚大輪吉成隆家文書)

 
     覚
 一、金千両      但、正金也
 一、金七百弐拾六両壱分ト
         永拾六文
             但、天明八申、同酉両年差上候
             御用金証文元金也
右は今般結構被 仰付候ニ付、為冥加被差上之慥ニ請取申候、以上
  寛政十戊午年十二月     興野市左衛門印
        高柳源左衛門殿
 
     覚
 金百両
右は今般 若殿様御乗出ニ付、為祝儀被相納請取申候、以上
  寛政十一年未年九月十三日  興野市左衛門印
         高柳源左衛門殿
 
 (包紙)「享和二戌年九月
    献納金差上証文     明雅代 壱通
     覚
 金七百両也
右は、御家督為御祝儀被差上、慥請取申候、以上
  享和二戌九月四日      興野金平印
             高柳源左衛門殿
             高柳粂蔵殿
(高柳への三通大関文書黒羽町公民館蔵)

 
 明和五年(一七六八)に至って黒羽藩は本格的に藩政改革に乗り出した。その任に当った鈴本武助は、藩主増輔が幼なかったので、江戸の隠君増興より、新規役である御用人格の郷方吟味役に任じられた。家中・領内百姓町人の政道向を改める全責任を負う役である。特に、郷方改めのための巡村と、郷方取締の諸法を次々と出し農政推進に当った。在任中天明の大飢饉に遭遇したが切抜けた。寛政五年に家老となり、同十年致仕するまで約二十年間民政に尽した。

享和の献納証文(黒羽町蔵)