増業が隠居し増儀の代になると、増業の新法も廃止され、藩財政の窮乏はひどくなった。天保四年(一八三三)十二月廿七日の御沙汰で「御借上ケ五百石ニ而九割二分壱リン是迄無之重御借上ケ被 仰付」(浄法寺高保覚書)家士に無勤の者も多く出たのは今迄なかったことであった。天保九年十一月十日に「此上御借増ニ而も被 仰出侯而者取続兼可申間面扶持申上ル」(浄法寺高慶御用向手控)と訴える家士がでた。
明和頃から重ねて来た借用・献納金・御用立金の申付は続けられた。高柳家からは増業隠居後から弘化三年までに、借用一千八百両・献納金四万七百五十六両三分・窮民救金差上金千三百両と米千俵が出ている。こうした功に対し、増業は文化十二年(一八一五)に高二百石に百石加増して三百石を与えている。(瀧田馨家文書)文政十一年(一八二八)には、「御用向数十石出精(略)御初入為御祝儀(注 金一万八千両)、是迄追々差出置金子へ差継別段之大金差出奇特之至思召候云々」として大関家の紋十雁木輪(注 正紋は十六雁木輪)を与えられ、高拾五石を加増の上給人持席とし、運上金の一部を免除している。
下之庄御用達飯塚茂左衛門より、天保六年(一八三五)から九年の間に金二百四十両(飯塚家が引受入あるいは借用人になっている分も含)借用している。(益子町飯塚潤一家文書)
御積立金は継続されたようである。下之庄飯塚家から、弘化三年(一八四六)から嘉永五年(一八五二)の間に金百二十五両を、年壱割から一割五分で借りている。
これらは、残存する文書・記録に依ってみられることなので、藩財政建直しの一部と思ってよいだろう。ほかに、家中行事の簡素化や取止め、奉公人の召放ちなどが諸文書で散見できる。
嘉永元年(一八四八)になると、領内の地押改めが申し渡された。その覚書(益子町飯塚昇家・仁平金雄両家)によると「荒地・川欠・山崩・広地・狭地・田成・畑成・二重打・位違・免違の打押改めである。田地の分散は合株にし、一株相応之働きが出来るように名主が願い出よ。田地は領主からの預り地であるので、勝手に貸地や売地してはならない。米永上納は五人組毎にし、他組へ越石してはならない。」そのほか地揮改帳・竿入順・出役賄・竿入手伝等について述べている。
これからみると、小農の再編成と確保、永続きが主眼の政策である。藩財政建直しの米永年貢上納をはかったものである。