天保四年(一八三三)にはじまる大飢饉は、全国的に天明の大飢饉に劣らない惨状であった。
黒羽藩では、困窮を脱するために、家中借上げと領内富豪からの借用金・献納金・御用立金を重ねるのみであった。藩では倹約第一の施策により、年中行事の簡素化や中止も行われた。領民には農業に出精し、年貢諸役大切に勤めるお触れが度々出された。しかし、極度の困極に「窮民為救金云々」の証文が残されているように、富豪からの献納金や献納米による救済に頼っていた。また、郷倉からの借付も行われた。このように、荒廃した農村の再編成確保と永続きを目ざして、嘉永からの地押も行なわれた。
藩主増昭が多病のため、安政二年八月死去したので極秘にし、妹於鉱を養女として急聟養子、篠山藩主青山忠良五男鉚之助を迎える内談が重臣の間で進められていた。
このような情勢下にあるとき、十月二日夜四時江戸を大地震が襲った。江戸藩邸の屋敷の御殿・長屋等が倒壊した。藩ではさっそく復旧に着手する。そのために、国産の材木・竹・縄・普請人足の確保を計った。すなわち、木材の統制が行なわれ、専売政策へと発展する。これは、国産木材の私売を禁止し、買占めの「操出世話方」商人を置き、木材調達責任に当る「諸木材操出懸」の役人が勝手方の下に設けられた。この木材運送の無償課役が調達された。
安政三年(一八五六)になると、木材以外の国産品である漆・柏皮の専売制を行い、次いで煙草や輸入物である鰯粕の専売も企てられた。こうした専売政策は、一時的収入をもたらせたが、農民困窮の時に農間稼を奪い、加えて無償の課役を行ない、一層農民の不安をかき立てた。
このような政策は、藩財政の建直しの仕法の主流とはなり得なく、やがて主役津田武前排斥となる原因の一つとなって、安政の騒動に突入する。
鉚之助は安政三年二月増昭の養嗣子となり、同年四月家督を継ぎ、七月九日初めて封に就いた。農民は増徳に直訴を計画し、集会が秘密のうちに行われ、やがて歎願書が藩に出された。青山家にも投入れられた。十一月十九日に至って公然と大勢徒党に及んだ。
この騒動には前に述べた仕法の抵抗もさることながら、家士による講や無尽と高利借しの撤廃も原因の一つであるが、概要については次項にゆずる。