九 文久から慶応の改革

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 藩主増徳は、萬延元年(一八六〇)八月に妻於鉱を離縁した。聟養子でありながらこの挙に出たので、藩士は隠退運動を起した。再三隠退を願ったが承諾しなかったので、文久元年一月十八日に、重臣は座敷牢を設けて監禁した。
 ここに於て、重臣は於鉱に配するに、遠州横須賀藩西尾隠岐守忠善の世子山城守忠宝の末男藤十郎を増徳の養嗣子とし、文久元年十月九日に家督を継がせた。於鉱は、増裕の内縁の妻として「奥方様」とは呼ばれず「於待様」と呼ばれた。
 これも、藩として止むを得ず取った措置である。浄法寺高譜「勤方手控」には「御血統絶候義者一統歎敷義ニ奉存候」とあり、血統保持の為に公儀にも親類にも相談せず内々に取計った。
 増裕は、文久二年(一八六三)四月八日幕府講武所奉行に任ぜられ、同五月十八日海陸両軍兵制を併せ司る。同九月旗奉行、同十二月二十二日槍奉行兼任、十二月一日陸軍奉行兼講武所奉行に任ぜられた。文久三年一月二十一日諸部の与力同心を統轄、同三月十五日病を告げて辞職した。

増裕肖像(前列右端)
-増裕公略記所載-

 これより先に藩の重臣は、増裕の入邑を要請したが、文久二年十一月に家老并諸役人に親書を下した。親書には、増裕が帰邑したときの藩政改革の決意と基本方針を示してあり、支配体制の再確立を考えている。特に「百事全権」を打出し、三つの基本方針を述べている。
第一、士民撫育は、寸時も欠くことがあってはならない。

第二、府庫充実は全ての基礎で、そのためには土地拡開が必要である。

第三、兵備更張と士気の鼓無は、当今の急務であり、そのためには一〇二五両を当て、大砲四門・小銃六〇挺を設える。

の三点である。このために「譬先規ニ無之新法といへども云々」「因循姑息ハ断然相廃云々」との決意を表している。左に親書の全文を掲げる。
                  家老并
                  諸役人江
不肖之増裕、南海之辺国ニ産、幼にして孤となり、無学駑鈍之廃人たる処、不図当家江養子御所望、継而家督被仰付、大慶雀躍不過之、実ニ幸甚々々、加之、豈図哉当夏講武殿総督ニ抜擢せられ、其後閣老参政ニ列して、国事を可議之蒙命、是武門之亀鑑歟、将暇瑾歟、感慨次ニ垂涙を以する所也。元来無悳にして青雲ニ居ハ、恐々として思慮を安する暇なし。然らハ辞官して田園ニ可帰歟、然といへ共、無事ニして私ニ官を辞する、仕官之道乎。苟事聴れ意貫通する故ニ、今日一事半句も建白貫通せざる時ハ、其官職ニ在といへとも、却而其職を貧といへるもの也。かくの如んハ朝を不待、辞して田園に帰ん、然ルニ当今府庫空乏、縦而士民之困苦旦夕ニ迫る之故を以而、辞官して田園ニ帰り、食を足し、兵を足し、士気を鼓舞せしむるの一事ニ及て、然るべからん歟之一説有、鳴呼天のしからしむる所、将辞して田里ニ帰らん歟、去なから方今仕官すといへども、自家富国強兵之願之意無ニあらず、唯時之到を待而已、今辞官して帰邑する上ハ富国強兵之一策、不為ハ有へからす、是有名無実を断然相廃、百事実備ニ帰せしめんニハ、先誠実剛直之法を施行すべき歟、然共是一大事件ニして易々たる事ニあらす、固より我等如き愚昧之預る所ニあらず、将如何ともすべからす、鳴呼如何せん、然共聞義不能従不善不能改ハ、古聖も尚憂とする所、况や当今凡人ニせむるハ、破れを取之道也といへども、亦捨置べからず、依而以下七ケ条を筆記して公等ニ問、先此等之許容あらハ格別、左無き時ハ如何様成力すといへども其益あらず、其益あらすんハ対公等何之面目あらん、况や先君へをや、故ニ以下七ケ条目許容無之上ハ、仮令官を辞して帰邑するも、何之益あらん、是偏ニ宜熟慮有之度事件ニ候、万一以下七ケ条之通許容有ハ、器械成る之日より、第六十日之後、必断然と辞官して帰邑可有候矣、以下筆記する所、聊も隠遁之意あるニあらす、華竟家名を重んじて言事也。苟其主たる者之賢愚不肖ニ寄リ、国家も亦没起す、况不肖之我等、日々恐々として其任ニ堪さらん事を恐る、故ニ此事件を公等ニ問、固より赤心之報言、祈望する所也、
一、入邑後、第三日之後より、百事全権たるべき事

一、在所隠君ニ関係する事件ハ、箕輪、隠君之御英断相受、細事たり共可取計事

一、以来富国強兵を主と致す以上ハ、意外之変改も可有之、依而譬先規ニ無之新法といへども、時ニ取而無害ハ百事可取計事

一、因循姑息ハ断然相廃、賞罪現然と施行可致事

一、当今、皇国之形勢、百患四方ニ迫といへども、固陋之俗吏碌として、災害眉間ニ起るを不知、百年之後も今日之如く思ふハ、実ニ歎燐ニ堪たり、今天下之形勢如此、其以下大小侯伯各家凡如此歟、既ニ今茲一言せん、其大概虚飾浮華、弊風一変し、実備ニ帰せしめん而已、此他何を歟いわん、夫士之世ニ在也、必恒産有、不肖之増裕、苟家政御委託之御受申上之上ハ、公等と国事を議談し、有名無実之事件を廃棄し、士民を撫育し、富国強兵を主張し、士気を鼓舞せしめすんハ、何之面目有てか、租先君ニ地下ニ拝謁せん、是孤か願也

 其一ハ士民を撫育するニあり、其ニハ庫庫を充実せしむるニあり、其三ハ兵備を更張し、士気之鼓舞を願ふニあり、其一ハ寸時も欠べからす之事件也、其ニハ其一を行ふ之基礎ニして、事々物々是ニ因て、是無他、土地を拡開するにあり、其三ハ則当今之急務也、今其急務とハ講兵を欲すといへども、器械不備、教師なし、将如何ともすべからす、今其器械物価之算当するニ、千零廿五金ニ過す
 是全賛典之可預事柄なりといへとも知者なし故に筆記す其不当を恕せよ
大砲四門、小銃六十挺
是大海之一滴、九牛之一毛ニ比すといへども、尚無ニハ勝れり、固より能せざるニあらず、是為さる也、是等之設有て据居せハ、一日尚千歳を経るが如し、即今政府講武殿之為ニ焦思心砕すと、何ぞ異ならん。
尊王と社稷を保存する一端、亦外ニ出へからす

一 右の事件一も偶然ニあらす、日夜成力すといへとも、期年之春秋を経る之後、一事も行ハれざる時ハ、徒ニ其位を閉塞する而已乎、如比んハ夕を不待して、断然と致すべし、然有すんハ、奉対先君何之面目あらん、誠ニ有名無実之主也、此時ニ至而、公等敢而止る事なかれ

一 致仕する之後、隠室之儀ハ箕輪下邸ニ可住、固より膝を容るる之屋あらハ足れりとすべし

右之事件ハ、其事之軽重ニより、固より緩急之別ハ可有之候

   文久二年十一月
(大関肥後守増裕公略記)

 
 増裕は、文久三年(一八六三)五月二十七日帰邑すると、先づ家格を問わず人材の登用をし、家老を半減し、新たに村上一学と大関弾右衛門を任じて新政に当らせた。
 内容は、凶年救済のため、米金儲蓄法を新設、戸口増殖奨励のため潰式の再興、藩財政の収支予算編成、田畑の新発のため新発掛の新設、開拓水利と農業事務のため勧農方の新設、林野課税法制定、雑税徴収の新設、林野の整理、松明草鞋献納、銀・銅・明礬・硫黄等の採掘、樺太開拓事業計画、通信機関の制定、聴訟自裁・目安箱の直披閲覧等の新規の法を行ったが、これ等は士民撫育もさることながら、富国強兵のための府庫充実であったし、兵備拡張への資金確保でもあった。
 また、兵備の更新を断行した。歩・騎・砲の三兵の編制、洋式銃砲術の導入、武器弾薬の輸入と製造、卿筒組ノ制定、農兵隊編制、喇叭伝習等を強行した。
 更に、改革の断行強行のためには人材の登用が必要である。特に文武に勝れた士の養成のため教育の振興を図った。学問所の開設、文教の振興と武道ノ練磨の奨励、乗馬の奨励、軍制の練武、英学・西洋医学・数学・西洋画・写真術・仏語・軍学等の修学のため家士中より選抜して江戸に派遣した。
 ここで特記することは、こうした改革によって得た資金や物資が、やがて戊辰の戦いに力を発揮したことである。反面、慶応二年の百姓騒動の原因ともなっている。
 同書に、「僅々タル歳月間ニ、練習用ノモノヲ除キ、大小砲十二門、小銃六百挺及軍器諸具ノ設備ヲ為スニ至ル云々」農兵隊については「慶応二年三月、領内農工商ノ子弟、十六歳以上五十歳ノ者ヲ徴シ云々、郭内近傍町村の者百拾名云々、マタ須賀川館五拾三名、峯岸館五拾八名、寺子館八拾弐名、迯室館五拾弐名、松子館五拾七名云々、最初徴集セシモノ計四百拾名ニシテ、漸次其人口ヲ増加シタリ」郷筒組については「元治元年三月領内ノ獵師数百名ヲ以テ、郷筒組ト称スル義勇兵ヲ組織シ、御堀廻り、東郷、西郷ノ三組ト為シ、苗字帯刀ヲ許シ、北門ノ守衛ヲ命シ云々、元治元年(一八六四)十一月水藩の脱武士武田勢黒羽城ヘ襲来セントセシトキ、亦タ戊辰ノ役、城郭警衛トシテ夫々盡ス所アリタリ」財政収入は「文久二年ヨリ明治元年マテ、僅々タル年月ニシテ、米方ニ六千九百俵余、永方ニ壱万千四百両余ノ増加ヲ来シタルハ、開墾及雑種税其他ノ徴収ニ由ル」新発による収税は「此収入は別庫(内庫)ニ入レ、非常ノ準備ト為シタリ。戊辰ノ役、白川口官軍ノ粮米、及藩兵ノ用トシテ、始メテ此米稟ヲ開キ、数千俵ヲ支出シ、之ニ充テタリ」非常の準備の貯蓄ハ百姓の救済には直接使われることはなかった。救済には、新たに献納米や献納金を命じて行われたことは、増裕が富国強兵のみの財政建直しであった証拠である。硫黄については「御国産硫黄三千貫目御買上之儀、昨廿七日伺之通、御買上可取計旨云々、寅正月(慶応二年也)」と幕府が買上げている。
 ここで増裕不慮の死後については、『下野勤皇列伝後篇中の大関弾右衛門』(蓮実長述)に、「賢璋院様御改革の諸制度、御逝去後御一週祭をも不済内に、格別の理由無きに全廃せんとの御評議には、断然御同意致兼候云々」と「辞職口上書」(雑誌「大日本第三巻第七号」所載」)にあるのをみると、家士なかでも重臣と農民の反抗を無視して断行した改革、しかも人材登用が結果的には側近政治になってしまった封建政治の悲劇とも言えようか。