一 増備「宝暦年中政事改正考」草按

324 ~ 328
 増備は、伊予増興興の嫡男として江戸に誕生した。幼名を直之助後に弾正、諱を初め増墨と言った。寛延元年(一七四八)六月十三日始めて将軍家重に拝謁した。宝暦十三年(一七六三)十月十五日家督を譲り受け、同年十二月九日叙爵して従五位下因幡守に任ぜられた。明和元年(一七六四)六月十八日休暇を賜り、始めて在処黒羽に帰邑した。
 増備は十六歳で将軍に拝謁し、三十二歳で家督を継いだので、部屋住は十六年に及んだ。藩主となり約十ケ月で卒去した。
 増備については、『創垂可継・多治比系伝六之巻、増備之伝』中に「家説云 増備ハ聡明に志て先之二代寛仁之政務に也家臣等流て萬之貴ある事を深く推察して厳威之政道を立殊ニ理非之決断神速ニ志て下情を能く察志常に寛猛之二ツ其用ゆへき所有る者なりと家臣等へも示談セ志と也全先祖増栄之政令に帰さんと思ふ萬事用捨増減志て質素を本と志法令を立又勝手向米金出入之道を考へ其頃不正なるを以諸事萬端作法を勘考志愚按之一冊を認又歴代之記録を自身書写抄略志政事改正之一助とす然も惜哉其志を不果家督之後歳月時日僅に一年に不備志て其実を行に間なく卒去す実以家之不幸なり其真筆之草按櫃中にあり今見る度毎之感ルイあ万りあり」とあり、名主であったことがうかがわれる。
増備が部屋住中は増興の治世で、築瀬太郎兵衛昌向と鈴木武助正長の二賢を重臣に挙げて、政治全般に治政を布いていた。しかし、藩政改革は財政の再建と農民が中心であった。家中・領民への仰渡しが領主の名に於いて度々出された。こうした状況の中で部屋住の身であった増墨は、藩政改革の草案を執筆した。増備より三代後の増業は、この草案の表書きに次のように書した。
 
  「
   増備公御筆
   宝暦年中 政事改正考 草按
     我子孫不可有鹿略
         曽孫土佐守増業
                」
                    (黒羽町蔵)


『宝暦年中政事政正考』(増墨親書)

 草案の裏書によれば、藩主となる前年、すなわち宝暦十二年(一七六二)壬午初春の考自書である。そして言う「右之条〻倹約之次第ヲ雖書印ト全是を可用ニモアラス能為穿鑿勝手之可直ヲ専一ト為可致令発端者也」と。
 この草案を執筆する趣意は次の前書きのとおりである。
 「我聞昔ハ他家共ニ家中ノ物成ヲ借リ用イシ事無シゾト今ハ諸大名其事有リ当家茂近年他借之金銀増長シテ家中ノ物成三分一五分一或ハ半地ニ致シ又ハ有リ扶持ニ申付候得共致方之不届故力次第ニ他借重リ家中ハ困窮シ民百姓ハイタミ主人ハ公辺之武役茂成兼家中ハ主人江勤モ成兼ル様ニ成リ又我等昼夜是ヲナゲキ取続ベキ致方ヲクフウシテ他家之倹約宜ヲモチイ又ハ諸人之ハナシニ元付テ一札之倹約之書ヲツヽル併マッタク私之チヘヲ不用右聞覚ヘシヲ書印者也タン才ミジュクニシテ行キ不ル届事モ可有諸役者吟味ヲシテタラザルヲタシアマリ有ルヲハブイテ家之マツタキ事ヲ第一ニシテ宜家風ニナシタキ心願成事」
 この草案の主眼は藩財政の建直しであり、そのための仕法を三十三箇条にわたって述べている。その中から、民政に関係深いと思わるる箇条を取り上げる。
1、永荒之事
「当家一万八千石之地行之内三千石余ハ永荒ニ成テ今壱万五千石成サシ当リ三千石不足也(略)壱万八千石之ツモリニテハ取続成カタキモ尤也壱万五千石ニテ壱万八千石之暮ヲシテハ何トテタルコトヲヘンヤ是ガ故ニ家中百姓茂困窮スルコト也家中百性之困窮ハ主人之困窮也去程ニ倹約之元ヲタヽシテ見レバ此タラザル三千石ヲタスヨリ外ニ致方有間敷無キモノヲタスコトイカニト云ニ是クフウノ一ツナリ」

と、永荒による三千石の不足を明らかにして「此次ニ書印事」として仕方を述べている。
2、不足之三千石ヲタシテ壱万八千石ニスル事。
3、毛見引之事

 この項は、三千石の不足は、家中五百石より百石までの借上げ、大扶持小扶持切米借上げによって建直す。

4、家中へ物成扶持切米渡シ様之事
 物成切米を、前年暮の相場をもって春夏秋冬と四つ割し、三月・七月・霜月に渡す。次の年の暮方見積をさせ、倹約令にそった暮方をさせる。

5、倹約之事
「先倹約之根本ハ百性也ベシ百性困窮シテ此上又田地ヲ荒シ或ハ不納有ルニヲイテハ弥以上壱人ヨリ下万人之難義也先百性困窮セヌ様ニ取扱タキモノ也百性ハ大キニソンヲシテ上ミニハ少エキニナリヌ百性ハ少シノイタミニテ上ミニハ大分ノ徳ニ成事可有是勘弁ヘ第一成ヘシ我聞及事有一〻ニ書分ル事ハシゲキニゟテ其一ニヲアゲテ万事ヲ吟味スベキタメニ及聞事ヲ書印事」として、次の項を設け述べている。

6、柿渋ヲ取事
 百姓に柿木を預ておいて、実を取らせて納めさせているが、田島のさわりにこそなれ、百姓のためにならない。

7、百性上り之事
 百姓年貢不納が重って上りに成リ、家中使いにすることは百姓難義である。

8、杉之木之事
 御用木として預けて置いた杉の木は、勝手次第切り遣ってよいと申し付けたい。

9、家中百性ヲ遣事
 知行取の士は、元の給地百姓であると言って遣ってはいけない。蔵前支給になっている以上、百姓を私に遣うことは間違っているし、百姓困窮の根元になる。百石に付夫銭を取っていることは猶更である。

10、家中へ百性より薪糖藁干葉等渡ス事
 百姓へ此品々を、百石に付き何程と結びつけて納めさせているが納めないようにしたい。

11、蝋を仕立テ百性之タメニ成事
 蝋漆木を仕立て、耕作の間にすれば、百姓畠方年貢のたすけになる。また、十之内より一つ或は二つ冥加金として納めさせれば、上下とも益になる。楮なども同様である。

この外、薪・川舟運賃取締等に渡っている。
 また、家中倹約仕法が述べられているので概略記する。
12、只今より倹約中金主之事
 藩御用達として十人設ける。役料二人扶持、徒士格、名主の上座とする。一人千石の年貢米を暮相場で引取らせ残りは蔵へ納める。金子借高は登らないようにするが、金子無くては暮し難いので借リ金返済は元利年賦でする。一年暮方の見積りも大元〆役でする。この金主の事は、「仕送金主出来タル時之事」に具体的に出ているが、蔵米物成金があまった時は、公用金として利子を取って家中百姓に貸金する。

13、右倹約役人之次第(次役の設置)
14、壱年中金銀渡方其外ツモリ大方之事
15、料理之間倹約之事。
16、在所料理之間之事
17、油蠟燭炭薪等渡事
18、墨紙筆等渡様之事
19、作事之事

このようにして、藩財政を建直すことが出来ることを末尾に記している。
「右の通リニシテ勝手直ルヤト問答テ曰ク可直其故ハ今迄無之所之永荒三千石ト毛見引米ノ二千石ト合セテ見レバ五千石成モチロン毛見ハ年〻多少有ベケレ共今之通リニテ見ル時ハ六年ニハ三万石之ウキニ成也是勝手之慥ニ可直ヨケイ也其之上随分右之惣役人申合倹約致上ハ何トテ勝手不直様可有之哉今迄之通ニアユミテハ借金ハフヘルトモ勝手直ルト云事ハ有間敷也但シ今迄之通リ之不積リニテ勝手直ルト云者有有ラバ其ユヘヲ聞タシヌ此書ノ通リニシテ勝手直ルマジキト云モノ有ラバ又其ユヘモ聞タシ何連ニモ惣役者相談吟味ニ可寄事是ニモルヽ筋有ル間敷哉ト思ふ故一札之書物ニ書印〓依之一分トシテ善悪ハワキマヘガタシ吟味ノ上多分ニ可寄事」

こうした草案は、増備の夭死によって実行にうつされたとは思われないが、前にも記したように、増業に至って、この上もない改政仕法として日の目を見、増業の藩政改革の資となった。
 増備は「大敵ト言ハ今之借金也此大敵士之心ヲ一ツニシテナドカハセメフセズシテ可置哉納リシ世ニザイヲフル事ハ天下ゟ預ル所之民百性ヲイタマザル様ニナデヤスンジ家来之者共困窮セザル様ニサイハイヲフルゟ外ノ軍法有間敷哉」との決意で「我等不才成トイヘ共昼夜心ヲクタキテ一札之書ヲ調ヘ〓(略)家老初諸役人心ヲ一ニシテ一分/\之勤モ成能様ニ勝手直リ候事ヲ乞願者也」と実行を計画した。
 以上から、家中借上げと、倹約による仕法によるほかなかった増備の改革案ともみられる。ただこの草案から、百姓が宝暦年間まで知行取によって使役させられ、夫銭を徴収されていたこと、家中借上げ制が以前として重要視されたことなど、宝暦以後にも継承されていく。また、領主金主制が以後大きな力をもつ。ここでは、百姓の保護と育成に意を向けたことは特筆してよい。
(草按は大宮司所蔵写本による)