教令の内容を概略記すると、風俗矯正・竊盗取締・造酒禁止・産児制限禁止・殖林・倹約励行・余利統制・売春矯正・領内穀留・親子親和・隣保互助・農事出精・備荒奨励等々多岐に渡っている。
武助は明和五年(一七六八)三月郷方改役になった四月、初めて十七条の教令を頒布している。「巡村にて申渡書為読聞並一ケ条づゝ為説聞候に付村方町方之者共大概一度之二三百人限召集一日三坐づゝ為申聞候趣左之通
初坐口演(略)文盲愚昧之者共の耳に入り安く何卒心に通しさせ度存念故口に述聞せ候事には至て鄙俗のいやしき言拙き事をも為申聞候得共本躯は御教之本立候事に候間各散乱之心をしつめ謹而可承候」と「為読聞・為説間・為申聞」との努力は「巡村申渡書並口述留書」(大塚久編著鈴木為蝶軒)によっても分かる。しかも、一日およそ三度、一度に二三百人くらいの人数で口演をして徹底をはかった。
特に、明和五年(一七六八)四月の教令は、武助の農政家としての根本を表わすもので、民意の尊重と領内取締役に任ぜられた意気が出ている。
更に、御教壁書は今日的ポスターであり、教令の要旨や教訓的な絵画を板にして頒布し、壁に掲げさせたことは全く新しい布教方法として特筆大書に値する。あくまで分かり安い方法を取り、徹底した教化をはかる武助の誠意のあらわれである。『創垂可継・農商暁諭』中、明和六年に村方町方へ布達した教令の一条に「御教壁書壱通宛近日出来次第村〻町〻江被下置候間面前ニ者り置奉得其意稼之筋に心を付候得者老人児童迄も相応之仕事有之ものニ候間女わらへまても油断為仕間敷云々」とあって、近日出来次第の壁書は現在しないが「別而貧民者春夏之間食物ニ相成候草木の若葉茎根等越取貯置可申候食物ニ相成草木制法之仕方御書付も追〻御教可有之候事」から推察すると、絵を好くした武助が、大飢饉における餓死、亡村の惨状を画き、救荒草木のことについての文章を載せていたであろう。
明和九年(一七七二)正月の教令中に「出生間引儀者此近国斗の事ニ而人界之大悪大罪罪ものかれ難き筋ニ候間度〻御下知有之候得共愚昧之者共悪風俗不相止趣ニ相聞候ニ付此度別紙御教一枚ツ竈毎々被下置間面前に張置様悪獣心之道理を辨へ以来決而間引無之様急度可相守候又名主ハ勿論頭立候者又ハ才辨有之者共読聞せ獣心行をひるかへし候様ニ教へ可申事 壁書板行別紙添」
の一条があるが、この壁書は幸に一枚現存している。(須賀川佐藤操氏・蔵栃木県文化財指定)これを人面獣心の図と言って、聖人の書より仏説を考合せ見せしめた。女装猫頭の獣が赤児をひねり殺す様子を大きく画き、上部に雅俗文体の説明が書かれている。
(注)内容は本稿「厚生」の項に示す。参照のこと。
(注)内容は本稿「厚生」の項に示す。参照のこと。
黒羽藩では、明和の出生間引禁止より以前、宝暦十二年(一七六二)八月「間引禁止ならびに養育米支給につき申渡」(栃木県史・史料編近世四黒磯市寺子熊久保康正家文書)があった。これによると、「於町在懐胎之女召仕ニ至迄・其所之名主組頭立合組切ニ厳敷遂吟味、人別帳面ニ致支配之代官迄兼て可申達置事しかも、「出生之子共弐人迄ハいか様ニも育立可申候、三人目之子供より幾人たり共男女ニ不限三才迄ハ壱人ニ付壱ケ年ニ米壱俵宛向後被下候条、随分養育可仕候、尤子共出生候ハ早速支配之代官迄可申達事(略)右之趣被、仰出候上ハ若相背内々ニてまひき候もの有之候ハ、当人ハ不申奉公人ハ頭々、町在ハ名主組五人組之者迄厳敷咎可申付事(略)村々拝見仕組中不洩様為申聞御書付之趣堅可相守候、午八月廿一日、杢左衛門・藤太夫・三郎兵衛」の書付を添えて出している。
天明九年正月の出生間引禁止の教令の約四年前、天明五年八月に「養育米支給につき申渡」があった。宝暦の申渡しにもかゝわらず、出生間引が後を断たなかったのであろう。「先達て度々御下知有之候得共、不相用者も有之段相聞(略)当人夫婦ハ不申及様子により親類組内迄も御咎可有之候間云々」と厳しく申渡している。なお「貧窮之者共子供三人持候得ハ、出生扶持願出壱俵ツヽ三ケ年中被下置候処、今年より貧窮之もの相願候ハヽ三ケ年分之米三俵壱度ニも可被下置候間、願出養育可致事、巳八月二日、藤助、五藤次、金右衛門」と養育米支給法を改正して申渡している。
こうした出生間引禁止と養育米支給は、他藩でも行われたが、黒羽藩としても積極的な農民確保をはかったあかしである。しかし、養育米制は変っていくがここで略す。