武助の最も力を入れたのは、備荒貯蓄のための郷倉の設置である。大吟味役は藩財政の宰する役であり、郷方吟味役になってからは一層農民町人の指導に力を致したと思われる。郷倉設置は延暦年中の詔に「郷毎に倉院を建てしむ」と郷倉制が出ている。享保年中には、年貢米を入れる郷倉の設置が見える。中国には義倉・社倉という庫があったが、武助の設置した郷倉は年貢米貯蔵倉ではなく、荒凶備蓄の郷倉であることは教令からうかがい知られよう。正徳三年(一七一三)に、三輪希賢の著書『救餓大意』が出版されている。その中に「社倉法」がある。武助は希賢より後の人であるので、学者でもある武助は一読していたかも知れない。
「農商暁諭」中の明和六年(一七六九)八月の教令の一条に「先年相定候為救窮料稗籾壱人ニ付五合ツヽ取立置候儀村〻書出申付相改候処去ル卯年ゟ去ル子年或ハ亥年迄九ケ年十ケ年無怠取立之致正敷候村方も有之或ハ二三ケ年ニ而何となく怠り不束之致方ニ相見候方も有之候得共此初発急度上ゟ被仰付候筋ニも無之万一凶年飢饉之為用心と取集置可然旨物百性共江相談ニ而調候沢ニ候間今更不将怠りの村〻とても御咎は無之候扨此以後弥以無怠取集メ置可然候」と飢餓からのがれるのは自衛である旨説いている。「段〻俵数多く成候村方江者諸所に郷蔵越建納置名主元江帳面を以仕立俵江茂年〻のさし札致置古稗に成候而婦け米ニも成候ハゝ吟味之上飯料難儀之百性江貸之置其秋返納為仕元石越不失様取斗可申候万一大変皆無年の備ニハ結構成事ニ候間隨分申合可致之事
但シ不得心成村方も候共押而、上ゟ被仰付候筋ニハ無之候間不承知之段可申出候」と情理をわきまえた諭をしていることは注目すべきことである。ここに言う「去る卯年とは宝暦九年(一七五九)で、武助が大吟味役時代で、郷倉設置の発案者か参与かのいずれかにかかわっていたと思われる。