武助は、大飢饉がしばしば起る年に生を受け、藩政参与として活躍した。したがって百姓町人を饑餓から救うため、郷倉だけでなく救荒草木にも関心が深く、先きにも述べた明和六年二月の教令に「食物ニ相成候草木の若葉茎根等越取貯置(略)草木制法之仕方御書付も追〻御教可有之候事」と指導している。
ここでいう草木の若葉茎根とは、武助が致仕し為蝶軒と号していたとき執筆した遺著『農喩』の「第六米穀高値」の中に「此外わらびのこ、くずのこ、志だみのこ ならのこをいへり 惣而木の実草の実および野菜の類、凡食物ニなるほどの物ハ、うりかひありしとも略せり」とある。「第八かてをたくハヘし人の事」の中に「毎年秋の末ニ至り里芋を刈取る節、茎をは皆ほしあけて、たくハひ、又切すてし芋の葉をも遺さず取集めおき云々(略)此貯の心がけハ、里芋の葉ニかぎらず、何ニても心を用る事(略)草木の多き中ニハ毒ニならずして、長くたくハヘニなる物も、あるべけれバ、つねにわすれず、貯おくべし」とありこれらを説いて巡村したと思われる。
武助が、明和六年郷倉を説け、食用草木の貯蔵を説いてから約十五年後の天明三年に、世に言う天明の大飢饉が襲った。しかし、黒羽藩領内では、「御領分之儀は一円に静謐仕、及飢渇候者も無座妻子安穏に扶助仕候」(大塚久編著「鈴木為蝶軒」)と、村民一同が藩に出した願書に述べられているように、善政となってあらわれた。このほか、教令には殖林、新地開発等にも及んでいる。
しかし、武助の民政が、藩の窮乏を全面的に建直せたかは、辞職に当り、寛政十年七月八日同僚家老三人宛へ書面(大宮司所蔵写本)を差出した「御領内人別増御物成米永の根元相増候儀者中/\ニ十ケ年や三十ケ年ニハ無之儀と相見候云々」の文面でも明らかであろう。