4 遺書「ききん用心 農喩」

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 武助は致仕して為蝶軒と号した。遺著『農喩』については、『創垂可継・諸臣系略巻之一』「鈴木武助正喜家」中の武助正長の項に「病ひの床にありても農民の事に心をゆだね、飢饉用心の一冊を草し、桜木にあけて封内に配らん事を文化三年正月晦日願ふて、其の日俄に病ひ重りて卒す(略)附録、飢饉用心の一冊ハ官軍の板ニ仰ありて封内に配らるへきの命ありといへども養子正喜ふたゝひ願ふて彫刻し是を配る」とある。
 また、増業は、『創垂可継・農政録巻之三稼穡考』の中に「農喩」の全文を載せている。その説明文に「藩臣為蝶軒鈴木正長農政之事を厚く思ひ此一冊越編て不慮之備となし農家へ施す因て後世失ハんために巻末に載置ものなり」とある。但し版本には、鈴木之徳澤民撰の序文(文化八年辛未八月念五)と、同藩長坂政右衛門安利の後跋(文化九年壬申春)が載せられていない。また、本書は文化九年、為蝶軒の七回忌に当り、同志とかたらい板行し、領内村々へ与へて荒備貯穀をさせるためであると述べている。
 本書の目録によると、内容は左のとおりである。
第一きゝんのうれひ乃事 第二同度〻の年数乃事 第三がし人乃事 第四天災地変乃事 第五長志け不作の事 第六こく物高直之事 第七乞食ニ出たふれ死す事 第八かてをたくはへし人の事 第九金を持し人うゑ死せし事 第十農業全書をよむべき事

の十章であり、凶年飢饉の周忌説を述べ、全体が享保・天明の飢饉の事と平生農に勤め業を課しもって諸蓄を奨励したものである。
 『ききん用心 農喩』は為蝶軒死後七年たって梓行されたが、稿本は、文化二年八月には完成したようである。当時は『農民懲誡篇』と称していた。交りの深い同志に貸したものが、文政八年六月の写本として見られる。これは版本と若干文を異にするところがある。原版本以外には、水戸の人秋山盛恭によって、文政八年に複刻され更に、天保二年に再刻されている。この二版本には、盛恭識がある。県史もこの再刻本を史料編に載せている。