三 大関増業の民政

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 増業は、文化八年(一八一一)十月二十四日に家督を継ぐと直ちに、藩政改革の趣意を五通認めて国元に送った。その主眼は財政建直しの急務であり、全ての施策はここから出ている。しかも、強い領主権力を求め確立しつつ「十年之内に者国用足り士民少しく安らかしめん」とまで言い切り断行する。
 増業の仰渡書五通中四書までは藩政を行う家老始め藩士・諸役人等へのもので奮起を促している。最後の一通は「農民并町人共江」下されている。要旨は「我も不及ながら其御跡を今度継てハ国の宝とする古とハ汝等を捨て外に我か宝とする物ハなし」と慈愛のことばを与え、「今よりして実に汝をハ我か子の様に存るから汝等も又我我を親と思ひ遠慮なくせよ」とも断言している。
 こうした内にも、耕作出精・新地開発を奨励し、年貢滞納を厳重に戒めている。もし「第一荒地を取立へく候も耕作を出精し年貢とゝかうらす荒地取立候分ハ十年ハ無年貢申付汝等の子孫を養たよりにせん」と達している。しかし、自から不作滞納を招かないようとの意か、「無程帰邑もいたしたらハ逐〻汝等の精出之所も見るからに今より其心にて出精して楽まつへく候」とも言っている。その反面「右農民町人共に此趣必背へからす若背もの阿ら者厳罪に行へし」と毅然たる態度に出ている。
 また、名主・五人組に対し、上に立つ者の心掛けを説き、不心得あるときは「相糺候上ニて其罪に罰へし百姓之物をかすめ取ハ云まてもなく大悪人にして其罪甚重しとす(略)町年寄之者も大凡在と町家の別ハあれとも心得は同前たるへし」と訓している。
 増業は、最後に改革実行の決意を自分に言いきかせるかのように「実上下共に人の上に立ものハ火之中江入心得になくてハ不成事也」と述べている。
 増業は、財政確立のため殖産に力を入れた。年貢増徴のため新地開発を奨励し、不作の場合十年間の年貢免除の制を定めた。『創垂可継・水利考』によると、用水堀・堤・川除・道橋等の地普請による増産がはかられた。また、『同農政録・稼檣考』によると、田畑の諸作培養並植林の立様等を書かれているが割愛する。『止戈枢要』は増業の編述した書籍であるが、その中に養蚕・製紙のことがある。製絨の試作も緬羊を導入して飼育させて羊毛をとり行なった。しかし、論述の段階であったのもあろうし、興味試作のものもあったろう。識者は増業の賢を称賛するあまり、藩情の真髄がわからず、一面のみの論評の向もある。多くの古文書が意図的に門外不出であった時代から一歩進んだ今日、見直す勇気が肝要であり、増裕についても言える。愚と賢の相異は、主従の関係からのみでは言えない。多くの家老が藩主を護って行こうと努めたことは特に幕末の黒羽藩で言い得るが、その解明が一部の資料のみで発表されている。増業・増裕二公の藩政改革は真に生きた黒羽藩政改革であったのだろうかと問い直す時機に来ているようである。