四 安政の百姓騒動

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 黒羽藩では度々の藩政改革にもかゝわらず財政建直しは成功しなかった。藩主増昭の死による急養子を迎える内談中、安政二年十月二日夜半ニ江戸を襲った大地震による江戸藩邸の倒壊は、黒羽藩の存亡をかける危機でもあった。藩財政は極度に窮迫していた時、復旧の方策は重く、家中はもちろん領民に覆い被る大事業である。
 藩では新たに勝手方津田武前の下に御普請御木材懸りを置き瀬谷善次郎を任じ、板貫木材類の急御用達の責任者とした。また、操出世話を設け、按屋忠兵衛と鉄屋利平の二商人に命じ、買占と運送を受け持たせた。運送には百姓を課役とし、作事には大工・左官・仕事師等の普請人足が急徴達された。こうして津田武前と瀬谷善次郎の仕方は次第に商人との結び付きが出来、材木の利稼ぎが行われた。
 また、領中富豪からの御用金調達は常とう手段であるが、人選には手心が加えられた上、栄譽を餌にした。しかし、黒羽藩往古以来の手段であり、藩財政建直し仕法の度に行なわれて来た。「嘉永五子年十一月改、在町家格調帳写、御代官役」には、往古以来の家格とも思われない、しかも、天保年前後に「○○御免」、「御用達云々○○御免」の家が連ねている。このほか百姓は遠近等を考慮して年貢の正米納・金納のどちらでもよいようにしてほしい、払米の値下げをしてほしいと訴えている。
 材木の国産専売制を施いたが、領内産の漆・柏皮を始め木炭・瀬戸物・明礬・硫黄なども国産専売を行ない、煙草や輸入物の鰯粕をもしようとした。『栃木県史・史料近世四』中の「御愁訴歎願、御領中惣百姓惣代、安政三年十月」によれば「武前様御義平常之御咄しニ百姓共は、何様厳敷取扱候共、百姓之騒動ニて大名之潰と申義は無之、御領内より出候諸品は不残御国産ニいたし十分ニ運上取立候ても子細無之、不遠たばこ荷物も国産ニいたし、百姓共自由ニハ為致間敷思召之様、専風聞有之、万一此上煙草等迄右様之次第ニ被仰出候様成行候てハ、御領内一統百姓共遺退転之基ニて、何れニても右体下々難渋少も御厭ひ無御座御非道之御取扱被成候云々」
 こうした武前と善次郎の仕法の外に、藩権力による家中高利貸が行われていた。加えて、家中が主催となって講・無尽を開き、困窮の百姓町人を巻き込んでいた。「津田武前様・瀬谷善次郎様義は、聟舅之間柄ニて御両人様共、御役柄之御権威ヲ以、御領内百姓町人無体ニ御勧メ被成(略)懸ケ金弐分ニて鬮数弐百本余、年弐会ニて廿四会致、終会之節残り鬮へ配当之金凡七八千両程ニ相成、会主徳金千両余ニ相成、悉大造之御企ニて、往々御領内惣百姓衰微退転之基有之云々」というありさまであった。「安政三年十一月須賀川・北金丸百姓歎願書」によると「催促人相廻し候節ハ、壱里ニて弐百文之割合ヲ以飛脚賃被成御取・右使之者相泊り候節ハ御留メ申賄差上、其上壱夜ニ付三百文ツヽ御使之者へ逗留銭と号被相取、右ニ付壱両金拝借仕候ても、壱ケ年ニは利足計切替等有之、銀十八匁相掛、其上御金主様へ御進物六百文口入人へ進物六百文、其外飛脚賃逗留銭泊リ入用不少、右様之訳柄ニてハ甚難渋仕候(略)差滞御日延申入候ても御聞済無之所持之田畑山林諸株等ニ至迄、少々之日限違約之ために御取上ニ罷成云々」という過酷さであった。これに対し「安政三年十一月、余瀬村ほか三か村百姓歎願書」に「御家中様にて講と申事ヲ拵、在町之物持等ヲ勧メ多分之金子ヲ巻上ケ御家中様計金物ニ相成候間、在町ニて金貸候者無之、無拠御家中様へ願拝借仕候、夫故所々村々減少仕候、因茲奉願上候は恐入候得共是迄拝借金之分は質物金ニ至迄、来巳暮より弐拾ケ年賦ニ被成下、借財之代り質物永代ニ御取上ケニ相成候、山林田畠家屋敷共ニ只今御戻シ被下子之儀来巳暮より是亦弐拾ケ年賦ニ御返納仕候様奉願上候云々」と要求している。
 以上二つの歎願書は、十月の歎願書のように津田武前・瀬谷善次郎の名をあげていないが、十月の歎願書に「武前様御勝手御役・長く御勤仕被成候てハ、御領中一同難相助往々人気騒立変難出来云々」と排斥しており、騒動を予告している。
 安政三年(一八五六)七月に至ると百姓の動きも不穏になってゆき、九月頃から極秘のうちに集会を持ち要求貫徹に向かって急展開していく。まず、十月になると、「上、御愁訴歎願、御領惣百姓惣代」の歎願書が目安箱に度々投げ入れられたが増徳までは届かなかった。増徳の実家青山家にも出された。
 十一月になると、百姓は一揆寸前にまでになる。三田称平『地山堂雑誌第一篇』に「十一月十九日夜全瀬白旗山羽田桧木沢境之台辺江須佐木須賀川之もの頭取ニ而大勢徒党いたしかゝり等燃立強訴之相談いたし候由追〻相聞郷廻り両人様子見ニ差出候所追〻風聞大ニ相成候ニ付夜中大夫奉行其外内談の上明ケ七ツ時称平出場代官郷廻リ等追〻欠付候様申遣向町迄罷出様子相尋候処人数追〻退散十四五人斗差留置候由郷廻り立帰り申聞候間追〻あつまり都合廿人郷宿へ引取郷廻りを以願筋相尋候処下案差出候ニ付内評之上印形いたし差出候様申付ル尤徒党をいたし候義ハ御法度ニ候間外村〻江ハ名主共ゟ早速申付願筋ハ何成共取次差出候様申付廿人之者一同徒堂之世話不致候様申聞候ニ付廿人之ものも銘〻村〻名主を以願出差上度之由ニ相成ル寺子高久湯本峯きし辺江も通達いたし追〻罷出候由ニ相聞候ニ付是江ハ早速代官市之助郷廻り源蔵差出候事此後箱訴并諸願等夥数綱紀甚混乱也後前ニ被召出戻シ御評議有之老中ゟ物頭大目付郷奉行也」と騒動と藩出兵隊による鎮撫の様子が記録されている。結果は手続を経た歎願書によることになった。前に記した十一月の歎願書二通は、この取り決めによって出されたものである。
 百姓騒動処理の方策が立たない十一月廿四日、給人八名は給人仲間に相談もなく、正統な手続も経ず、百姓騒動について「乍恐謹奉言上候」と口上書を増徳に出した。内容は「是迄士分之者より金子借用致居候処、利足積立困窮之者より元利取納候ニ付、返済之手段ニ尽候て無拠歎願之及相談候様ニも奉察候(略)右様騒動仕候儀ハ全く士分之者之所為よりおこり候儀ニ御座候得共、何謂れも不弁他邦之者ハ、御家政之からき所よりおこり候哉と存なし可申(略)此度之御所置百姓共願筋御取揚無御座候ては、彼等途方ニ呉絶対絶命之場より如何様之口事出来可仕哉も難計(略)御百姓を取遺し騒動之基を開候者之罪と、困窮ニ相迫り歎願之為徒党仕候者之罪ト何れか重く可可御座、私共愚意ニは御領内取潰し候者之罪 御先祖様御当代様へ奉対重き罪かと愚案仕候(略)」である。この挙に対し、給人仲間より、「私共仲ケ間之内八人尚又党興ケ間敷申合(略)私共へは其節相談も不致言上ニ及(略)八人之義ハ別席ニも可相願と申掛候得共(略)義絶ニおよび候外有之間敷と及内談ニ候云々」と批難している。これらを「黒羽藩給人徒党事件」と伝えられている。
 藩では、士分の者全員に意見書を出させ、藩論の統一をはかり、解決策を立てることにした。曲折を経て翌安政四年(一八五七)正月廿三日、藩主増徳と御隠居増儀の内諾を評議に付し、二月一日に触書きが出来た。触書が大目付から廻状として浄法寺城代に来たのは二月三日である。
 解書きは、今度の歎願書を全て差戻した上御触を申し渡すとして「在町江御触」を達した。内容は、
(1)、家中より在町へ借金子の返済は、百姓潰にならないよう勘介してやり、借用人は実意を以て返済すること。

(2)、利足は、公儀御定を過ぎてはいけない。質物・身代金も利下げをすること。

(3)、樽代・飛脚銭・逗留銭等は堅く禁止する。

(4)、家中より在町への貸付は禁止する。

(5)、国産材木取り止めること。

(6)、漆並柏皮は勝手に売ってよいこと。

(7)、講並無尽は暫時見合せること。

また、「重御評儀の上御法令」が出された。これらは、藩政の落度としてでなく「近年金銀貸借多分ニ相成困窮之者、家業ニ怠り年増奢ニ長し、身分不相応の借財いたし、行々潰退転ニ成候義(略)以之外悪風ニ付、今般重御評議之上、御法令被仰出候間、在町一統無洩落急度可相心得候」という、百姓自体の仕成りのよからぬ事によって起ったとした。しかし、安政四年四月五日仕法替についての家中触書によると「旧年徒党及秋訴候始末、全く士分より貸出し候高利金より事起り」と言っているので、当時の藩の処理方法の苦るしさが判かる。
 安政騒動事件の処分については、四月一日重役の内評があり、家中処分が決定した。家老大沼半太夫、物頭吟味役津田武前、大目付松本源太夫の三人は御役儀御取上げの上蟄居、給人大関篤之助、渡辺監物、松本織之介、大塚久太郎、山上兵衛、板倉政一郎・鹿子畑早太、築瀬兵右衛門、大小性小山守之助の九人は閉門大小性瀬谷善次郎は閉門、中小性益子重兵衛は逼塞、料理人岡田造酒之助は戸〆、外に津田岩太郎、松本多仲閉門等二十名である。
 この中に給人八人と大小性一人の九人は「給人徒党」として、藩の統制を乱した罪による処分である。
 徒党頭取はじめ主だった者三十二名の処分が四月五日申し渡された。北金丸古町組八右衛門・須賀川中組五右衛門・須佐木正左衛門は頭取として重い罪に問われて永牢である。この外は、宅押込、牢舎十二日、手鎖十二日、戸〆十日等の刑を命ぜられたが、御初入邑、大雄寺への欠人歎願によって比較的軽かった。八右衛門の罪状と処分は次の通りである。
     申渡覚
                  北金丸古町組
                     八右衛門へ
其方儀借財多分ニ付難渋之旨願立可仕と、去九月中村々集会可仕之廻状差出、其後十一月中五右衛門、正左衛門等一同徒党相催候段、御法度を背、重々不届至極ニ候、依之御法之通厳科可申付処、御初入猶又此度重御法令有之ニ付、組親類大雄寺へ欠入歎願申出候ニ付、御慈悲を以永牢申付もの也

(『県史・史料篇近世四』・益子家文書)