藩財政は、化政期以降、一時の仕法では相立たず下降を続けた。年貢米、永金、運上金の納入は思うにまかせず、安政の百姓騒動の終末も、根本的解決をみないまゝ増裕の代に入った。増裕が、士民撫育を唱えても、殖産の少ない領内で精神的な安堵感に終ってしまい、農事出精にまで至らなかった。
増裕の農民への訓諭親書は、元治元年三月に下されているので左に記す。
農民ヘノ訓諭(自筆)
農民江
去年入部、後其方共安否を尋んため巡見して、夫々家業出精、一家睦敷、孝心等有之者共江者、夫々褒美遣し、望あらハ望之趣聞届度存居るといへども、今度ハおふやけの御暇ニあらされハ、表向巡見も難致、仍而無拠今度目代巡見申付候、いつれ我等も重而巡見、家業出精等之模様、且安否を問んと思ふ也、夫迄之処、今度目代申付間、其方共難渋之趣、且我等ニ申聞度事あらハ、我等ニ申聞心ニて、目代之者江聊も無遠慮申聞へく候
一追々領中之模様承知いたし候処、先年凶作以来人別減少ニ相成、其上疲弊弥増、引潰退転等も不少由、扨て誠ニいたわしき事ニ候、乍并右様難渋之場合をも、其方共骨折収納いたし呉れ候間、公儀御奉公向ハ勿論、多分之家来扶助迄も無差支、今日迄繰合取続候も、偏ニ是等其方共骨折故と、千万辱、感心落涙いたし候、今度御先代様御病気ニ而、遂ニ不肖之我等、政事向御譲りを蒙る上ハ、御先代様深厚之難有思召ニ而、其方共をいつくしミ、大切ニいたわる様ニと之思召を受る上ハ、汝等数代領中ニ、父母や曽孫迄も飢餲させす、栄暮事も全御領主之御厚思なり、我等も乍不及其御跡を継からハ、此上国家之宝とする物ハ、汝を捨て外ニ何をや宝とせん、百姓より国の宝なるハなし、箇様ニ大切なる宝故、民減する時ハ宝減する事なれハ、無此上大切なる物なり、家業出精ハ勿論第一なれ共、尚父母や子を大切ニ養育しそたて、少も国ニ人民多くなる様ニ致サハ自然と荒地少く、親類多時ハ助合自由なる故、必子供共鹿末ニ致申間敷候、万一家内多ニて難渋せハ、其旨郷奉行江早々申出よ、農業出精之上ならハ、何とか助遣し可申候、荒地再発致度而も故障等有而手出し致兼所等ハ、早々申出よ、見分等申付、可相済地ならハ叶ふ様ニ早速致遣し可申、惣而植付時を不怠、秋苅時を不延、農人ハ仮初ニも商人之風ニ不成行様ニ心得、専ら朝暮農事而己出精せよ、年若なる者共家業を怠て、風俗あしき町人抔之真似する事あり、甚心得違なり、以来急度改可申候、自分之家業を出精セハ、褒而遣可申、若又如何程出精しても、其甲斐なくんハ、神仏をうらむ事なかれ、奉行役人をうらむ事なかれ、皆是領主壱人の罪なり、其罪我等ニ在へし、去なから、諸役人奉行初之依怙贔屓等あらは、早々に可申達候、決而後日にそれかため、其方共ハうらませ申門敷間、安心して而不隠可申達候、夫も何そ表向申出兼候ハヽ、目安箱江訴出よ、是より者、其方共を我子の如くニ思ふから、其方共も我を親と存し而、遠慮なく難渋之筋ハ申出へく候、人殺盗賊等ハ、皆知る通天下之御制禁ニ而、あしき事なれ者、此箇条破る者ハ、国之大法に罪すへし、扨又其方共、困窮も家業出精之上ならは、如何程ニ乎可助遣、併なから、自分一分之家業を不勤して、上を恨者、甚心得違也、是等克〻可心得、向後改革向、届而之後ハ、追々汝等扶助法も建んとす、今より専ら工夫致居なり、其方共も無油断耕作出精せよ、何ニ而も上の為と存事あらば、早々心付之旨可申出、以来役人始家臣共、汝等ニ向て、難渋共可相成事、無理なる事等者、不申様ニ申付置間、隨分安堵し而農業出精すべし、以来前〻も申通、惣而役人ハ勿論、家中之者、或名主組頭等ニ至まで、其方共江向而、無理なる取扱等せは、不包可申出候、表向申出兼候ハヽ、我等直開致間、箱訴可致、差向候儀者、今度目代之者江可申聞候、是迄も表向願兼義者、箱訴いたし候様ニとて、目安箱差出置といへとも、兎角役人并家中、或ハ村役人等江拘候事者、後日ニうらまれん事を憚而、箱訴も致兼、陰ニ而難渋致居族も有之趣、扨々歎敷事ニ而、以前ニも申聞如く、決而偽ニさいあらされハ、聊も難渋ハ為致申間敷、安心して箱訴せよ、皆我等自身ニ開封致なり、万一箱訴之儀ニ付、無理等申掛る者あらハ、是また早々申出よ、調之上、夫々厳重ニ所置可致也、何事ニ寄らす、人の難義とも相成義ハ、たとひ他村他組之事たり共、領分中之事ハ、皆不包早々可申出候
一名主組頭等ハ、多人数之首ニ立、下諸百姓之手本共可相成身分故、克心を用ひ而、人之困窮せぬ様ニ導き、不仕合ニ而寄る処なき者江者、別而厚養育し而、仮初ニも下民を見下而侮る事なかれ、無理之役威募而、押付る事なかれ、役威ニ募而、私する者あらハ、他村他組之者といへども、早々可申出候、一分之愛ニ溺れ而、無拠義理合抔と而、面目を憚而閉口致居者、甚心得違なり、惣而一村中、聊之事をも彼是申争等するハ、皆名主組頭之畢竟不届処より事起るもの也、克々一和し而、風俗宜成様、且又荒地再発等を、専ニ工夫すへし、農業格別出精之者、或は八十以上老人等ハ、別而大切に可取拵、家中江欠入者、古来より之停止、此上停止を破り、欠入等致者有之ニおゐてハ、皆名主組頭之不念とす、常々平百姓共不心得無之様、克々心掛可申候
右之趣急度相守、家業出精におゐてハ、恩賞有へく候、必疑事あるへからす、何事も私心を離而、一筋ニ農民安堵ニ相成様、専ニ工夫すへし、惣而軽たり共、役を勤る人、或者人之頭とも成者ハ、聊ニ而も私心未熟等有而者ならぬものなり、火の中江入る心持ニなく而ハ、不成もの也
右者所存之荒増申聞候、猶後日御暇も拝領せば、其節者自身巡見し而、夫々安否を問ふへきなれ共、夫迄之処、此段申聞置候。
元治元年甲子年
三月
二世之乗化亭 増裕之印
右元治元甲子年四月十八日ヲ以、家老大関弾右衛門、郷奉行小山権四郎、徒目付益子直太領内巡村申渡セシナリ(日数凡ソ 五十日間)
右者所存之荒増申聞候、猶後日御暇も拝領せば、其節者自身巡見し而、夫々安否を問ふへきなれ共、夫迄之処、此段申聞置候。
元治元年甲子年
三月
二世之乗化亭 増裕之印
右元治元甲子年四月十八日ヲ以、家老大関弾右衛門、郷奉行小山権四郎、徒目付益子直太領内巡村申渡セシナリ(日数凡ソ 五十日間)
(増裕公略記)
以上の親書には、増裕の士民撫育は述べられいるが、府庫充実の具体策は何一つない。こうした反面、増収の施策は次々と出されている。すなわち、慶応二年(一八六六)二月に仰出された「検山規定之事・荒田畑山之事、山地渡方之事・〓場之事、新発地之事」の箇条は、「御家初て之重事心得可有之候事」(大宮司所蔵文書)と言いきった上納負担の強化策である。内容は、山林田畑は如何なる地でも調べ、無永之地をなくし、永納を条件に荒地の開発を許可する等である。また、同九月十五日に「態と申越候、陳者当年収納之処、本納にも可申付処、昨秋違作後、いまた難渋之者も可有之間、格別之憐愍を以て、八割五分上納ニ申付候旨、可申付候事」と村上一学、大関弾右衛門に命じている。特に両郷地方の農民は、幕領両郷村からの借用金の返済に悩まされていた。そこへ重い上納である。
十月二十二日に下之庄の農民が、上納一件を中心に鶏足寺山へ集合したが、藩兵の出動みぬうち散会した。このことは、上之庄農民に影響を与えた。十一月二日木佐美・桜田・須賀川上組で集会、十四日夜桜田外十一ケ村が集会、十六日両郷小菅入窪で集会、十七日向町、金丸・湯殿・亀山で集会、十八日向町集会、二十日大豆田・田町集会を行った。越堀宿石嶋市太郎は仲介役に中山光徳寺と桜田村重右エ門に依頼した。両名は決死の覚悟の頭取副頭取外世話人を各村に置かせ願書を認め、出張って来た奉行に差出した。藩は之を容れず、止むなく再度集会し歎願書を持って城下に迫らんと企てたが、高梨伴右エ門が来て、歎願を受取り、百姓等に引取方を言い聞かせたので、一同は解散した。
藩は評議の結果、各村の庄屋に談判して取調べに掛り、主謀者等を調べ出し翌慶応三年正月に至って処断した。『栃木県史・史料編近世四』「小林華平よりの状況報告書状写」「慶応三年正月覚書」によると左のとおりである。
正月四日夜、桜田村重衛門・中山光徳寺(庄左衛門)召捕、樋世原源五右衛門、須賀川上組市右衛門、半兵衛、田仲市兵衛、桜田幸蔵、簗瀬八百蔵、久野又武右衛門、孫兵衛、大輪村忠蔵、向町次郎松、寺子支配狸久保久兵衛、大久保村壱人、当村入牢の者三十人で牢屋内は一寸の隙間もない状態であった。追々田町も吟味になって、油屋作右衛門、木屋国右衛門、田代屋作兵衛、鉄屋惣助、大竹屋峯七も入牢になるだろうと述べている。
召捕を出した村々では直ちに大雄寺・帰一寺・光厳寺に親類・組内・家内の者一統欠入して助命を懇願したが八日お払になっている。やむなく、十九日百姓参りの心信も行った。
藩では三月十六日奉行渡辺文太夫・小山権四郎を廻村させ極困窮の者二十六人に、郷倉。稗穀を貸し与えたり、四月には貯蔵米雑穀までの量と家別、人別改めをしている。五月六日に、中山光徳寺・桜田重右衛門は磔刑、頭取等九人は打首を仰付けられたが、後三人は御払になり六人が打首と決定した。(中山家古文書)旨処刑が行われようとした時、郷奉行瀬谷角之進が早馬で馳付、徳川氏大法令を名として増裕の直書を朗読し、死は助命、他は夫々減刑した。正に芝居の様であったと言う(増裕公略記)
慶応二年十二月、百姓一揆に際して、増裕は親書を村々農民共に与へている。『栃木県史・史料篇近世四』に、「今度難渋之次第申立・乍去本納ニても申付候ニは無之間、上納は其方共第一之儀職分ニて(略)第一上納は農村之職分ニて武家ニて主人々々之仰ニ従何事ニても勤候と同様之事ニて候(略)」と述べているが、農民撫育の方針の具体策がこれであったらあまりに粗末である。真に「農民は宝」であったら、騒動の原因ともなった「八割五分上納」を申付けるとの厳命は出なかったはずである。「真ニ難渋之者へは年内にも下ケ遣間、村内実ニ難渋之者へ聊宛配分可致候、全是ニて食料足訳ニは無之候得共云々」とあるとおり、同年十一月に桜田村に、米三十一俵を極貧の者へ下されているが焼石に水で、年貢米の減免を歎願して騒動になった。こうした、騒動の結末は藩の兵力による鎮圧であり、増裕の富国強兵策の続く限り、騒動の醸成の素地はあったとみてよいだろう。増裕の再評価をすべき時期であろうが、筆がそこまで及ばない。