3 領国支配の整備

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家康は、武蔵・常陸・下総・近江に検地を行なったが、その目的は隠田摘発と石高の打ち出しにあった。
 このように内外の体制を固めながら、家康は公儀の掌握を、より実質的に深化させる方策をとっていった。
 慶長八年(一六〇三)家康は右大臣となり征夷大将軍の宣下を受け、源氏の長者となった。こうして、独自の公儀を掌握しながら、全国諸大名を実質的に主従関係に組みこんでいった。
 旧豊臣系の諸大名の加増と転封と譜代の部将の加増と転封により、譜代・外様の大名の配置に努めた。例えば、北陸・近畿を結ぶ要地に家康の子結城秀康、近畿・東海を結ぶ近江佐和に、井伊直政、伊勢桑名に本多忠勝を、尾張に家康の子松平忠吉を、東北関東を結ぶ磐城平に鳥居忠政、下野宇都宮に奥平家昌を、上州館林に榊原康政を配置し、外様の大名に対しても軍事的警戒と威圧を露骨に示していった。(岩波講座『日本歴史9』〈太閤檢地〉などによる。)
 徳川幕府は、諸大名に絶対優位する直轄領(天領)の支配を実現した。
 家康は関東領国体制の段階で、江戸の周辺諸国に百万石以上の直轄領を設定し、覇権を確立してからも、外様大名の改易・転封を機会とし、また大坂の役後、畿内とその周辺にまで一門、譜代大名の所領を配置したり直轄領を設定し拡充をはかっていった。
 直轄領は、関東・東海・畿内とその周辺地区の集中傾向から、さらに全国に及んでいったが、辺境地帯における直轄領は、分散配置の傾向をみせ、多くは大名領に介在させて、大名と寺社統制に重要な機能を発揮した。
 『吹塵録』によると、幕府の直轄領は元禄期(一六九〇年代)までに、六百八十万石~七百万石に達し、そのうち旗本領は約二百六十万石であったから、幕府が直轄農民から貢租を徴収できるものは四百二十万石に達した。なお譜代大名、旗本領などは特定不定のものとして存在せず、激しい転封と所領の移動がなされたことは注目されてよい。また覇権確立後は、京都・伏見・堺・長崎・大坂・奈良・山田・日光等の主要都市をも直轄し、京都には所司代、大坂には城代、その他の都市には各奉行をおいて厳重な統制を加えた。