一 幕府直轄地(天領)

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 天領は、幕府直轄地のことである。御料又は御領といい、天領は俗称である。天領の名は、天下様(将軍)の私有地という意味であった。また天領は御支配所または代官支配所とも呼ばれていた。
 江戸時代の三千万石に近い全国の土地は皇室領(〇・五%)・社寺領(一・二%)・大名領(七二・五%)に対し、幕府直轄領は一五・八%を占めていた。これを下野国についてみると、全体の石高約七十六万石の一一%あまりの八万五千石であったという。
 このうち旗本知行所を幕府直轄領に含めて天領とみる見方もあつた。
 天領は各宿村に散在していた。政治・軍事・経済上の要地である都市・港湾・鉱山などにもおかれたが、勘定奉行の管轄のもとにある郡代・代官の支配する郷村で、幕府の収入源をなしていた。
 下野国地内の天領は、神領・寺領のまわりにあるもの、大名領に隣り合っているもの、交通上の要衝地にあるものが多くみられる。なおこの点から黒羽地内の天領などの配置上の意味を考えることは意義深いことであろう。
 天領の支配は、幕府から任命された代官が、各支配地の年貢のとりたて、治安維持などにあたることにあつた。
 下野だけでも数多くの代官がいたが、市川孫右衛門、伊奈半左衛門、雨宮勘兵衛、鈴木平十郎、羽倉外記、小出大介、岸本武太夫、竹垣三右衛門、山口鉄五郎などは特に有名である。
 なかでも山口鉄五郎は、寛政五年(一七九三)に代官に任ぜられ、吹上村(現・栃木市)に代官陣屋を設けて赴任し、下野・武蔵両国内に五万石を支配していた。享和三年(一八〇三)には那須地方の代官領支配強化のため、八木沢(現・大田原市)に出張陣屋を設立、同地方の復興につとめた。また幕府に建言し、関東地方の治安維持のため、文化二年(一八〇五)関東取締出役を設置した。晩年那須野ヶ原の開拓を志し、木股川に水門を設け、用水(山口堀)を開削したことがある。なお山口鉄五郎は、松葉川などの改修のため、野上村・大久保村・須佐木村などを視察している。(宿札「山口鉄五郎宿」〈引橋の石川道弘家蔵〉による。)

山口鉄五郎宿札
(石川道弘蔵)

 なお山内源七郎は最後の真岡陣屋代官で知られている。
 代官所(代官陣屋)は、真岡・吹上・八木沢のほか小山・東郷(芳賀郡)・藤岡等におかれたことがある。
(注)「下野の風土と歴史」(栃連協)・栃木県百科事典(下野新聞社)などによる。