二 御朱印地『東山雲巌寺』

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 寺産のことについて『東山雲巌寺由来の事』(仏国禅師)の項に次の記事がある。
 「昔、岩舟地蔵の尊像を作りて、開山塔に安立(あんりゆう)し、又豆田郷に千石余りの土貢をば、近年まで(慶長十三(一六〇八)年頃か)仏応地蔵の香具地(こうぐち)として、寺産に入る。」
 さらに天正の兵火について次の記事がみられる。
 「雲巌、遙かに洛陽(らくよう)五山の起本としての徳望有り、年代因順(いんじゆん)して京相(けいそう)の五岳、日(ひび)に以(もつ)て盛大なり。物換(かわ)り位分れて吾が東山も亦十刹(じつさつ)と作(な)る。然りと雖も尚大相国の尊重せられて、九層の華巌塔を健て、荘田(しようでん)等加(くおう)ふと雖も滅せず、すでに二万石余の地有りき。
 〓運推(きうんお)し移りて、永正より永禄に至るまで(一五〇四~六九)、永永乱世にして、兵火度度(どど)に寺宇を破り、狼藉(ろうぜき)漸々に荘内を減す。
 天正十八年(一五九〇)なる庚寅の年に至りて、関白秀吉公、相州小田原(さがみおだわら)の城を攻むる時、当国の那須家、軍に従はざるに、而も小田原の平らぎぬ。関白大きに怒りて、捋に烏山の城を破り那須家を絶やさむとするの始め、老若(ろうにやく)縁に隨ひ、且つ当山の敵城と作(な)らむを慮りて、先ず伽藍を焼却し、悉く寺料をも没却す。
 衆僧、仏像・祖像・這々(しやしや)の什物(じゆうもつ)・篇額等を負ひだして、逃れて深谷に入る。其の後、唯古来の寺跡境内には山川と此の残物(ざんもつ)とのみありて、灰塵寂寞(じやくまく)たり。
 ここに再住妙心勅諡(ちよくし)無住妙徳禅師和尚(大虫宗岑(そうしん))多年住在して、すでに老いをもって休すと雖も、諸子と力を合はせて再び寺宇を建つ。寓(ぐう)僧・行者(あんじや)・力者(りきしや)等、境内を耕して田圃となし、仏に奉じ祖に奉(ぶ)して、寺基をば断絶せず。後(のち)、妙徳禅師を以て当山中興の祖となす。
(注)当山はこれより妙心の付庸(ふよう)となる。境内に中興開山の碑あり。
  ここに大猷院殿(たいゆういんでん)大聖大君、境大一、二里許りの山林・其の内の田圃百五十石等(山林竹木寺中門前ならびに諸役等免除)すべて寄付の御朱印を降下(ごうげ)して、聖世代々改変無く、今を御(ぎよ)して古を棄てず。若し天下に君臨するの大量至仁(しいじん)に非ずと雖も、しかも聖家万歳、相ともに何ぞ変ぜむ。またよろこばしからずや」(以下略)
 雲巖寺領朱印状
 下野国那須郡福原之内東山雲岩寺境内百五拾石事任先規令寄附之〓全可収納並寺中門前山林竹木諸役等免除如有来永不可有相違之状如件
 慶安元(一六四八)年七月十七日
  印
  右
 大猷院様御朱印写之通紛無御座候
  寛文五(一六六五)年六月十三日           住持
                             凉月印
(戸村家文書による)